三輪資料

http://urano.org/kankou/kitayama/minaya05.html
http://joysite.jp/obanet/non_walk_yama00.html


三輪山
高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川、北は巻向川の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ha。
山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われる。
古事記によると、昔大和盆地に住んでいた活玉依毘売(いくたまよりびめ)が夜毎に通って来る男によって懐妊するが、その男の正体が判らず両親の提案によりある夜、男の着物の裾に麻糸を付けその糸を辿って行くと、糸は鍵穴を抜けて青垣をなす円錐形の威容のある山の社に達して、そこには大蛇が髑髏を巻いていた。このことから男が大物主大神である事が判り、また糸が三勾(さんこう、三巻)程残ったので、その土地を「三輪」と呼ばれるようになる。

若宮社(わかみやしゃ「大直禰子神社」 おおたたねこじんじゃ)
祭神は大物主神の子孫大直禰子命(大田田根子 おおたたねこ)。
奈良時代に大神寺(おおみわでら)、鎌倉時代に大御輪寺(だいごりんじ)と呼ばれた神宮寺で、現在聖林寺に安置されている国宝の本地仏「十一面観音」を祀っていたが、明治の神仏分離で神社に成る。
 
久延彦神社(くえひこじんじゃ)
祭神は久延毘古命。居ながらにして世の中の事をことごとくお知りになって居られる智恵の大神。
古事記には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている神様。
国作り神話には案山子(かかし)として登場する。
少名毘古那神がはじめて出現した時、誰も知らなかった少名毘古那神の名を知っていた神であり、知識の神として崇敬される。

狭井川(さいがわ)
古事記には、川の畔に大神神社の祭神、大物主神の子、伊須気余理比売命(いすけよりひめノみこと)の館が在り、神武天皇が彼女を訪ねてこの辺りへ来た時、佐韋(さい、山百合)が咲いていたので「佐韋川」と名付けたとある。

神武天皇聖蹟碑(じんむてんのうせいせきひ)
葦原の しけしき小屋に菅畳(すがたたみ) いやさや敷きて わが二人寝し (古事記 中つ巻)
(葦原の韋の繁った小屋に、菅の蓆を清らかに敷いて、二人で寝たことだ)
東征の後に橿原の地で即位した神武天皇が、大久米の進言によって、狭井川の辺で見初めた比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と一夜を明かした時の歌。

富士神社(ふじじんじゃ) 
富士登山の際には本殿前の砂を持って行き、霧など視界が悪い時にその砂を蒔けば、たちどころに視界が開けるといわれます
弁天社古墳(べんてんしゃこふん、古墳時代後期)
 社殿の裏側に、古墳の石室が露出し、楠木が石室を包み込む。

茅原大墓古墳(ちはらおおばかこふん)
帆立貝型前方後円墳で、墳丘部全長約66m、後円部径約56m、前方部幅約29m、箸中古墳群の中では、「箸墓古墳 」に次ぐ規模をもつ。築造年代は五世紀と考えられる。

桧原神社(ひばらじんじゃ) 
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
大神神社の摂社。大神神社と同様に三輪山を御神体としており、現在は山中の磐座を御神体とすることから、拝殿も本殿もなく独特の形をした三つ鳥居が立つのみ。
崇神天皇6年(紀元前92年)、宮中内に同床共殿(どうしょうきょうでん)で祀られていた天照大神を、笠縫邑(かさぬいむら)にうつして磯城神籬(しきひもろぎ)を立て、豊鍬入姫命(とよすきいりのみこと)に奉斎させたと『日本書紀』に記されている事から、天照大神が伊勢神宮に鎮座する前の宮があった笠縫邑の伝承地で、元伊勢とも呼ばれる。

玄賓庵(げんぴんあん)
平安時代に桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌って三輪山の麓に隠棲したという玄賓僧都の庵跡。
平安時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を安置する。
能『三輪』の舞台としても知られる。

能『三輪』あらすじ
 三輪山に庵を構える玄賓僧都のもとへ、毎日、閼伽の水を持ってくる女がいた。今日も庵を訪れた女は、罪を助けてほしいと玄賓に頼み、衣を一枚恵んでほしいと言う。玄賓は衣を与え、女の住処を尋ねると「我が庵は三輪の山もと。恋しくば訪らひ来ませ杉立てる門」という歌の通り、その杉立てる門を目じるしにおいで下さい、と言い捨てて姿を消す。(中入)
玄賓が訪ねると神木の杉に与えた衣が掛かっていて、その裾に「三つの輪は清く浄きぞ唐衣。くると思ふな取ると思はじ」という一首の和歌が記してある。やがて神霊が烏帽子・狩衣の男装姿で現れ、神も衆生を救うためしばらく迷い深い人間の心を持つことがあるので、その罪を助けてほしいと言う。そして三輪明神の妻訪いの神話を語り、更に天照大神の岩戸隠れの時に舞われたという神楽を奏するが、夜明けと共に消えてゆく。

八大龍王神社(はちだいりゅうおうじんじゃ)
八大龍王とは、仏教で法華経説法の座に列したと云う八種の龍王で、難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑迦羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)の各龍王を指す。
娑迦羅龍王が海や雨を司り、航海の守護神や雨乞いの本尊。

辰五郎大明神(たつごろうだいみょうじん)
元禄時代の大阪の豪商「淀屋(淀屋辰五郎)」を祀った神社

狭井神社(さいじんじゃ) 
約二千年前、第11代垂仁天皇の時に創祀せられた名社で、主祭神は大神荒魂神、配祀神が大物主神と、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめノみこと、神武天皇の妃、第2代綏靖天皇の母)、勢夜陀多良比売命(せやたたらひめノみこと、大物主神の妻、媛蹈鞴五十鈴姫命の母)、事代主神(大国主の子)です。

磐座神社(いわくらじんじゃ)
祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)
大物主大神と協力して国土を開拓し、あらゆる生産開発に尽力し医薬治病の方法を定められる。
俗に神農さんと称せられる。

活日神社(いくひじんじゃ)
崇神天皇に大物主大神の掌酒(さかびと)に任命された高橋活日(たかはしいくひ)は神酒を捧げる。
そして、「此の酒は わが神酒ならず 大和成す 大物主の醸し酒 幾久 幾久(この神酒は私が醸したのではなく、大和の国を造られた大物主神が醸造された酒です。幾代までも久しく栄えますように)」と歌った。以来、大神は酒の神として信仰され、「味酒(うまざけ)」は三輪の枕詞となる。

大神神社(おおみわじんじゃ) 
祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
大物主大神を祀り大和朝廷創始から存在する「日本最古の神社」の1つ。
三輪山そのものを神体とする神社で本殿をもたず、拝殿から三輪山(御神体)を仰ぎ拝む古神道の宗教習慣を残している。三輪山信仰は縄文・弥生時代にまで遡る事が、遺跡調査によって確認されている。
拝殿は1664年に、四代将軍徳川家綱により再建された。


『古事記』の上巻に、
大国主神が自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神が亡くなられ、 たった独りでどのようにしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光(てら)して依り来る神」があった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、 「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に「こは御諸(みもろ)の山の上に坐す神なり」と記れる。
つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、 三輪の神であり、これが大神神社ということである。続いて、同じ『古事記』中巻の 神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神」であることが記される。

また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神 が、協力者の少彦名神がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂(さきみたま)・奇魂 (くしみたま)」であると言い、「日本国(やまと)の三諸山に住みたい」と答える。 そして「この神が大三輪の神である」と記しています。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子が三輪君族の始祖であり、 三輪の神が大物主神であることが示される。

更に、平安中期の『延喜式』にも同種の伝説が記されている。
いずれも、大和の東方に独座していた三輪山に、大物主神を祀ったことが記載される。

また、酒と薬の神でも有り、造酒屋の軒に吊されている杉玉は三輪山の杉で作られる。

平等寺(びょうどうじ) 
大神神社の元神宮寺。581年聖徳太子が8歳の時、賊徒を平定する為、三輪明神に祈願し、目出度く賊徒平定の後に「十一面観音」を彫って寺を建立した「大三輪寺」が起源。鎌倉時代の初期、慶縁上人を迎えて「平等寺」と改称されてより大興隆を極めた。

磯城瑞垣宮跡(しきみずがきのみやあと)
第10代崇神天皇の「磯城瑞籬宮」跡
現在は志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座する。

金屋の石仏(かなやのせきぶつ)
平安時代後期から鎌倉時代の間に作られた石仏。 
右が釈迦如来像、左に弥勒菩薩像と伝わる。
平等寺に安置されていたが、明治初年の神仏分離により現在地に移される。

海石榴市観音(つばいちかんのん) 
向かって右が、長谷寺式観音の特徴を持つ十一面観音。左は聖観音である。いずれも元亀(1571~1572年)の銘を持つ。初瀬川の岸に流れ着いたとも言い伝える。

海石榴市は、万葉集にもその名があり、八十衢(やそのちまた)と表現される。

紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる子や誰れ  巻12 - 3101
(紫染めには椿の灰を入れるもの。その椿のある海柘榴市で出会った乙女、あなたは誰?(名前を教えて欲しい))

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰れと知りてか  巻12 - 3102
(名を教えてもいいけど、すれ違っただけのどこの誰かもわからない方に何と言えばいいかしら(お教えできませんことよ))

海石榴市の 八十の衢に 立ち平し 結びし紐を 解かまく惜しも  巻12 - 2951
( 海石榴市のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、結び合った紐を解いてしまうのは惜しい事です。)

海石榴市港
大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点で山の辺の道や初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあったので物産が集まり、日本最古の交易市場が成立し海柘榴市と呼ばれ賑わった。
清少納言も枕草子で海柘榴市の賑わいを紹介している。
ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣」の舞台でもあった。

仏教伝来の碑
欽明天皇の13年(552年)に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻物等を献上し、日本に仏教を最初に伝えた所と言われる。
607年には聖徳太子が派遣した小野妹子を大使とする遣隋使節団も海柘榴市の港から川船で大和川を下り、608年には小野妹子が隋の使者を伴って帰国しこの港に到着した。このとき飾り馬75頭を遣わして阿部比羅夫に迎えさせ、飛鳥の小墾田宮に入京したとの記録も残されている。海柘榴市周辺は大陸との交流の中心地で迎賓館も設けられ外国使節を歓迎した。


ここで本日のコースは終了となります。
みなさま、お疲れ様でございました(^o^)

参考文献
日本の古社 大神神社(淡交社)、奈良まほろばソムリエ公式テキスト(山と渓谷社)、角川日本地名大辞典 29 奈良県(角川書店)、神奈備大神三輪明神(三輪山文化研究会編 東方出版)

参考サイト
大神神社公式HP、平等寺HP、
奈良観光、奈良の寺社、神奈備にようこそ!、奈良歴史漫歩、Wikipedia山辺の道、大和路アーカイブ、記紀・万葉でたどる奈良
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Author:奈良入門ガイド
歴史のもっとその奥へ!!

「歴史や寺社に興味のない人も、楽しくためなるご案内!」をコンセプトに、奈良入門ガイドや入門講座をやっています。
歴史文化を、どう日本人の糧と薬に出来るか日々模索中。歴史の心を全国に広め、世界の秩序向上に貢献出来れば幸いです。
「人々の安全保障」(全生物の、生活と生存を守ること)に貢献する事を、当面の目標としています。
奈良大学卒、奈良検定最上級、京都検定初級。

歴史精神文化というツールを用い、世の安寧を目指してゆければという願いを込め、京都の「平安」と奈良の「寧楽」を合わせて「安寧会(あんねいかい)」と名付けています。

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