佐保川桜と周辺寺院

興福院

奈良時代(8世紀中頃)の創建のようです
寺伝では天平の頃、和気清麻呂が学問所として創建した弘文院が前身とも伝わり、
「諸寺縁起集」や「七大寺日記」などの史料には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされ、諸説存在するようです。
元は、近鉄尼ヶ辻駅近く(現在の伏見の崗「興福院別院」)に創建されましたが、
1665年(寛文5年)に現在地に移転し、尼寺として再興されています。

尼寺となったのは、筒井順慶の一族の自慶院栄誉心慶尼が初代で、2代目は豊臣秀長の妻の智雲院で、豊臣時代は手厚い保護を受けていました。
江戸時代に3代将軍家光来訪の際、3代秀誉光心尼が小堀遠州のとりなしで寺号を興福院と改め、遠州により本堂、書院、山門が造営されています。
書院には渡辺始興の水墨画の障壁画があり、霊屋には歴代将軍の位牌があり、渡辺始興の極彩色の襖絵も見事のようです。


吉村長慶(よしむらちょうけい)
文久3年(1863)12月21日(陽暦では元治元年.1864 1月29日)奈良薬師堂町の質商吉村家に長男として生まれる。
明治12年数え17 才の時、慶応義塾に入学、間もなく退学して陽明学を学び、大隈重信ほかの立憲改進党の志と交わり、党の創設に加わる。
明治14年帰郷。
明治19年、結婚し家業の質商を営む。
明治27年、日清戦争のバブル景気で長慶は北浜の相場で膨大な利益を得る。
明治29年、数え34歳のとき分家して西ノ吉村家を興す。同年日清戦後の大陸へ渡り、上海を起点に中国各地を単独で旅行。
同29年、高野山奥の院に吉村家の墓所を設置。宇宙菴を名乗り、様々な石碑を造る。吉村家の菩提寺である奈良市鳴川町の徳融寺に最初の長慶生前墓を建てる。この頃から狛犬や千度石といった無難な石造物を社寺に寄進する。
明治31年、奈良市政発足に伴い、三級市会議員に当選。以後再選を重ねる。
明治39年、「畿内遷都論」(首都を東京から山城大和に遷都)を著し桂太郎内閣に建議。
明治37年数え42歳、母の還暦を記念して石の「志奈子橋」を菩提川に建設。興福院墓所地に墳墓を築く。
明治38年、欧米各国の宗教事情を視察、欧米の平和団体などに「世界平和會」賛同を呼びかける。このころ平和を記念する「諌鼓鶏」石灯を各地に奉納。高野山奥の院に二つ目の墓所を設け、武内宿禰碑(長慶の遠祖)。母志奈子の生前碑を建てる。
大正2年、当選が危ぶまれていた二級市会議員に予想を覆しトップで当選。宗教活動が活発になり、石工・新谷信正を独り占めにして石の作品制作に拍車がかかる。
大正5年、再び株取引に成功し財産を築く。箕面竜安寺に自分に似せた「ヒゲの大黒」を寄進。
大正11年還暦、自身の寿像を連作。大阪平野大念仏寺に「長慶入棺の座像」、佐保山に長慶寺造営を計画。
大正12年、長慶寺完成。長慶は得度して僧籍に入り、道号を普門長慶と称す。佐保川に長慶橋と下長慶橋を建設。川の内堤に「三聖人合掌の浮き彫り」と「宇宙教典」を設置する。
昭和3年、長慶寺に居を移す。「昭和の信仰」出版し、既成仏教、新興宗教、迷信陋習を攻撃する。教義や宗憲を刻文した宗教的な石碑と、等身大の自像を多く造る。
昭和14年喜寿、奈良市旧一条通に「長慶庵」建て隠棲。戎大黒、夫婦大黒を数点つくり和を説く賛を記す。
昭和17年(1942)10月27日、長慶逝去、行年数え80歳(万78歳)。

参考資料
ホームページ「安達正興のハード@コラム」より

大仏鐡道記念公園
ここに関西鉄道路線の大仏線大仏駅がありました。駅の南端が、この大仏鐡道記念公園になります。
1898年(明治31年)4月19日開業し、1907年(明治40年)8月21日に閉鎖されています。
伊勢や名古屋から大仏に一番近い駅として、大仏参詣に訪れる利用客で大変賑わっていたようです。
大仏線は加茂 - 大仏 - 奈良間(約8km)を運行していましたが、1907年8月21日に黒髪山越えの難所を走る大仏線に対し、平坦な木津経由への経路が開通すると次第に利用客も減り、明治40年に廃止されました。
わずか9年あまりの路線でありましたが、大仏鉄道の線路はその後も道路として利用され、いくつかの橋脚やトンネルなどの土木構造物が路線沿いに名残としては点在しています。

関西鉄道
明治時代に存在した鉄道会社で、大阪府北部・三重県・奈良県・和歌山県を中心に路線を展開していましたが、鉄道国有法により1907年(明治40年)10月1日に国有化されました。
現在は、JR東海・JR西日本路線の関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線になっています。

参考資料
大仏鉄道研究会公式サイト
http://www.eonet.ne.jp/~daibutu/

佐保川
奈良市の法蓮町から西九条町まで、約5kmにわたって1050本を超えるソメイヨシノが植えられております。
佐保川の桜が名所になったのは、江戸時代に奈良の名奉行であった川路聖謨が、桜と楓の苗木数千株を東大寺・興福寺の両寺を中心に、東は春日山の麓から南は白毫寺、西は佐保川堤まで、植樹し奈良公園の基礎を築いたといわれます。奈良の人々は春は桜、秋は楓を愛しんできましたが、桜の寿命は短く(約80年)、当時の桜はほとんど消失し、現存する桜は堤防に4本だけになっています。その中でも、樹齢約150年をこえる桜の木「川路桜(かわじざくら)」は見事です。
戦後になって、奈良県議会の働きかけにより植樹して桜が復活し、近年は地元の有志の方達により保存会が結成され、桜まつりや夜桜のライトアップなどが行われています。

なお、佐保川の「さ」は誉める言葉、「ほ」は大変綺麗という意味を持っているようです。

川路聖謨(かわじ としあきら)
川路聖謨(1801~68)江戸時代末期(幕末)の旗本。
1846年から約5年ほど奈良町奉行として在任しました。この間、貧民救済策を実施し、東大寺・興福寺を中心に大規模な植樹を行い、今日の奈良公園の基礎を築くなどの善政を施しました。
大坂東町奉行、公事方勘定奉行、勘定奉行格外国奉行等を歴任し、ペリー来航に際しては開国を主張します。
長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉をまかされ、翌年、下田で日露和親条約を調印するなど外交に力を尽くし、日露通好条約をまとめ、北方四島が日本固有の領土であることを明示したこと等で知られています。その際ロシア側は川路さんの人柄に大変魅せられたようであります。
その後は、将軍継嗣問題による幕府の扱いに不満を持ち外国奉行を辞職されています。
晩年は、中風で半身不随に陥るなど、不遇の日々を過ごされ、
1868年、西郷と勝による「江戸城開城」の報を受け、幕臣としての信念から割腹し銃で喉を撃って壮絶な最期を遂げられます。
享年67歳。

川路さんは天保の改革で奈良奉行に左遷されて、江戸から15日かけて妻子や養父母とで奈良にやって来ましたが、江戸を離れたがらない実母を残してきたため、頻繁に奈良での様子を書き綴り、書簡を江戸に送っていて、それが往時の奈良の様子を今に残す貴重な資料になって残っています。
川路さんは、よほどこまめに記録をした人のようで、他にも日記などの文書がたくさん残っています。(「寧府日記」など)
当時の奈良の庶民のことや食べ物や風物、見聞きした文化、歴史のことなどもよく描かれ、最初は奈良の風習に戸惑っていた様子ですが徐々に慣れ、しだいに頻繁に奈良を歩き回るようになり、奈良の歴史文化に触れてゆくにつれて、その奥深さに心惹かれていったようです。

川路さんの名前がこれほど奈良の人々に知られ、記憶されているのは、奉行として善政をおこない、奈良の恩人と慕われているからであります。
例えば、罪人が牢より出た後、働き口もなく、結局、再犯してしまうことに気づき、自ら出資しまた地元の富裕層からも募金を呼びかけ、基金を創設してその利子で貧民救済にあたった結果、再犯が減ったといいます。しかも、自らの出金にあたっては名前は出さず、匿名にしたようです。
自分のアイデアで様々な庶民派の制度を、作っていった奉行さんでありました。

山田風太郎はその著「人間臨終図鑑」において、
「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうものの、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。」と記されています。

現在、奈良女子大学のある場所が、奈良奉行所跡であります。


称名寺(しょうみょうじ)
浄土宗西山派で山号は日輪山。
1265年(文永2年)に興福寺の学僧(専英、琳英という兄弟)が常行念仏の道場として創建したものであります。当初は興福寺の別院で、興北寺(こうほくじ)とも呼ばれていました。
室町時代には東西に400m、南北に300mの寺域を有していたが、2度の火災で諸堂全てを焼失。1802年に現在の本堂と、独盧庵のみが再興されました。
本尊の阿弥陀如来像と釈迦如来像を含め5体の重要文化財があります。(3体は奈良国立博物館で保管)
また、侘び茶の祖として知られる村田珠光が11歳のときに出家したとされます。

獨盧庵(どくろあん)
別名珠光庵。村田珠光の好みと伝えられる(現在では否定されている)。三畳敷であるが点前座の一畳を台目構えとし、また一畳半の鞘の間との敷居を外して四畳半の席にもすることのできる、大変珍しい席である。文化年間(1804年-1818年)の作。
5月15日(珠光忌)に近い日曜日に盛大な茶会が行なわれるそうです

千体地蔵尊
松永久秀が永禄元年(1558年)に多聞城を築城する際、その城壁に用いた地蔵石像で、その数は約1,900体に及びます。

村田珠光(むらたじゅこう)
応永29年(1422)検校村田杢市の子として現在の奈良市中御門町で生まれ、幼名を茂吉と称した。
十一才の時、出家して当称名寺の僧となり、十八才の時当寺の塔中法林庵に住したが、二十五才の頃一旦還俗して世俗の生活を送った。その後三十才の頃京都紫野の大徳寺に入り、参禅工風を重ねて茶禅一味の境地を開くに至る。
その一心に徹する姿を良しとして、その師一休禅師(1394-1481)から宗経山円悟禅師の墨跡を授けられた。珠光が喫茶に礼式を興し、その名を天下に響ろかせるや、時の第八代将軍足利義政(1436-1490・銀閣寺を建立)は珠光に就いて茶道を学び、六条堀川に庵を贈り珠光庵の扁額を授けた。
珠光は、ここにおいて四畳半の座規や台子の法を定め、京都銀閣寺東求堂に代表される書院茶の華美に対して、真の茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、佗び茶の基礎を確立した。
この珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎(1505-1555)、千利休(1521-1591)を経て今日に伝わり、現存する各流儀のいづれもが村田珠光を以ってその祖としている。
なお珠光は、文亀2年(1502)五月十五日、八十才で遷化し、大徳寺真珠庵に葬られるとともに、同年七月十八日法跡たる当称名寺にも分葬された。

称名寺ホームページより

村田珠光がわび茶の祖とされるのは、「心の文 」という重要な文章を残したからとされ、「心の文」は茶の湯が人間の成長をもたらす心の道であるということを示唆しています。

参考資料
ブログ「奈良の景色」写真・雑記 
http://naranokoto.seesaa.net/article/149442317.html

蓮長寺
開創年代は不明ですが、奈良時代末(750年頃)に創建された(三論宗)「喜見城院」が前身とされます。
日蓮聖人が寛元4年(1246)~宝治元年(1247)に滞在し、応仁2年(1468)、日蓮宗に改宗
桃山時代に火災で焼失しますが、承応元年(1652)に復興して蓮長寺と改めています。
本堂には本尊として法華経入宝塔を中心に左右に多宝如来、釈迦如来を安置のほか、四天王立像、誕生仏、日蓮像、大黒天像、七面大明神、八大龍王像などを安置されています。

蓮長寺竜騒動伝説

その昔、寺に近い溜池に竜が出没して、毎夜農作物に被害を与えていました。
困りはてた農民の訴えを聞いた住職が、ある夜その場所に出かけてみると、闇の中で竜が大暴れしていました。
もしや本堂の大竜では、と住職が急いで寺に帰り竜の絵の眼を槍で突いたところ、それ以来、竜は出現しなかったといいます。
この蓮長寺は、以前は喜見城院、喜見院と呼ばれていましたが、日蓮聖人(前の名は蓮長)が南都遊学の折、この寺を拠点とされ、以後聖人にちなんで蓮長寺と名を改めたといわれています。

西方寺(さいほうじ)
本尊は、木造阿弥陀如来坐像(平安時代の作・国重文)元は眉間寺の旧仏と云われています。
奈良時代に行基菩薩によって多聞山に創建されました。
1559年(永禄2年)に松永久秀が多聞城を築くために、現在地に移築されています。
1603年(慶長8年)に、東大寺の勧進職祐全上人によって再興されます。
翌年、正親町天皇から南都総墓所の勅旨を受け、現在も広大な墓地が広がります。
祐全上人坐像は、弘治2年(1556)の作で16世紀に奈良を中心に活躍した仏師集団「宿院仏師」の作で、数少ない肖像彫刻の例として貴重なものとされ、奈良市の指定文化財になっています。
境内には祐全上人のお手植えという樹齢400年の“厄除けイチョウ”や茶室などがあり、無名の頃の宮本武蔵も修行に来たと伝わっています

念仏寺「山の寺」
開化山に御陵守護のために建立されたことによります
 (浄土宗) 降魔山善光院「念仏寺」です。本尊 阿弥陀如来
元和8年(1622)に徳川家康の末弟(当時伏見城代)松平隠岐守定勝が、袋中上人を開山として建立
本堂は寛永7年(1630)の建立で、浄土寺院としては古い建築です

徳川家康公は1614年大阪冬の陣で、真田幸村軍に破れ
この「山の寺」に落ちのび桶屋の棺に隠れ、九死に一生を得たと伝わります
境内に徳川家康末弟「松平隠岐守定勝」の墓と 奈良町奉行「桑山左衛門」の墓があります。

東にある漢国神社には、家康が落ちのびて鎧を奉納したという「鎧蔵」があります 
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Author:奈良入門ガイド
歴史のもっとその奥へ!!

「歴史や寺社に興味のない人も、楽しくためなるご案内!」をコンセプトに、奈良入門ガイドや入門講座をやっています。
歴史文化を、どう日本人の糧と薬に出来るか日々模索中。歴史の心を全国に広め、世界の秩序向上に貢献出来れば幸いです。
「人々の安全保障」(全生物の、生活と生存を守ること)に貢献する事を、当面の目標としています。
奈良大学卒、奈良検定最上級、京都検定初級。

歴史精神文化というツールを用い、世の安寧を目指してゆければという願いを込め、京都の「平安」と奈良の「寧楽」を合わせて「安寧会(あんねいかい)」と名付けています。

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