佐紀佐保歴史の道概要(奈良市歴史の道)

佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)
「盾(楯)列」は、古墳の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいます。
大小60あまりの古墳よりなり、200m超す巨大古墳が古墳時代前期築造が3基、中期築造が4基あります。
4世紀末から5世紀前半にかけて巨大前方後円墳が営まれ、
これらは、初期ヤマト政権との強い関連も指摘されています。


奈良県下にある全長200m以上の大型前方後円墳は計19基あります
そのうちの7基がこの古墳群にあります

五社神古墳(ごさしこふん)
全長は273mあり、佐紀盾列古墳群の中では最大の古墳。全国でも12位。
文久年間に神功皇后陵に治定。
古事記では「御陵在沙紀之盾列池上陵(御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り)」、日本書紀では「葬狭城盾列陵(狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る)」と記されています。
承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にあります。
2008年、陵墓として初めて研究者16名による限定付きではあるが立入調査が行われました。
この時の調査で東側前方部の後円部よりの所で、埋まった状態の埴輪が発見されています。

拝所内に延享2年(1745)~寛政2年(1790)の年号が刻まれた八基の灯篭があります

神功皇后
(170年~269年6月3日)日本書紀によると100歳で没
仲哀天皇(14代)(日本武尊の子)の皇后。現在の天皇は125代
仲哀天皇の九州熊襲征伐時の急死後(200年)、『日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。


けっこう、強い女性であったようです。
三韓征伐(、百済、高句麗)を行う。
そのあまりに超人的な行動や、神懸かり的な故事の故に、神功皇后は実在の人物ではないという意見も結構根強く、直木孝次郎氏は、神功皇后物語は新しく七世紀後半に成立したとしている。

http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/jingu.html

成務天皇陵
佐紀石塚山古墳(前方後円墳・全長218m)
『延喜式』諸陵寮によれば、狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけしりのみささぎ)に葬られました。 『書紀』に「狭城盾列陵」、『古事記』に「沙紀之多他那美(たたなみ)」とあります。
元禄時代までは五社神古墳が成務陵とされていたそうです。

成務天皇
第13代天皇
成務天皇は第12代景行天皇の第4皇子で、名を稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)と云い
日本書紀によれば、初めて地方の国県の区画を定め、国、郡(こおり)、県(あがた)、邑(むら)のそれぞれに首長を置いたと伝えられています。

日葉酢媛命陵
全長207m。1875年(明治8)治定。
かつては神功皇后陵にあてられたこともあるそうです。
巨大な蓋(きぬがさ)形、盾、家形、鰭付円筒型埴輪や、内行花文鏡、四獣鏡が出土しています。
埴輪起源伝説・・・それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納された。
大正時代に大きな盗掘被害にあっており、佐紀古墳群では唯一、埋葬施設や副葬品がわかっている古墳である。

2009年2月20日に2008年2月の五社神古墳に次いで2例目となる、考古学専門家による立ち入り調査が行われた。
高木博志京都大学準教授は「この古墳は江戸時代まで地元ではは神功皇后陵と考えられ後円部の墳頂に安産祈願の神社があり今回の調査で神社への参道や妊婦の腰に当てたという白い石(詳細不明)も確認出来た」とおっしゃっています。

日葉酢媛命
垂仁天皇の皇后。
垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。
前皇后は、狭穂姫命。『古事記』中巻の垂仁天皇記と『日本書紀』垂仁天皇4・5年条
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/kiki/suinin/hibasuhime.html

狭穂姫は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂彦王に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を殺害するように言われる。
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は謀反の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。
反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂姫は兄に殉じてしまった。

垂仁天皇の皇后狭穂姫は、兄の狭穂彦王が謀反を起こした時に兄の陣営で皇子を産んだ皇子を、天皇方に渡そうとするが、その時に捕まらないよう黒髪を切った。そしてその黒髪を埋めた地がこの「黒髪山」であるようです。

称徳(考謙)天皇陵
称徳(考謙)天皇が崩御時の八世紀に前方後円墳はもう造営されておらず明らかにおかしい。この古墳の築造は5世紀前半の可能性が高い。
奈良時代の天皇陵は基本的には山丘形のものが主流ですがこの称徳天皇陵は例外
同天皇が創建した西大寺の隣接地に大規模な墳丘を造って古墳形式で葬られたようです


称徳(考謙)天皇
46・48代天皇
749年8月19日~ 758年9月7日(考謙)764年11月6日~770年8月28日(称徳)
父は聖武天皇、母は光明皇后
史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇。
父が建立した東大寺に倣い、西大寺建立を発願する。
道鏡を寵愛し混乱の原因を作ったことでも有名

佐紀神社
673年(天武天皇白鳳2年)鎮祀し、超書ス寺建立と同時に鎮守神になり、祭神は相殿三座に、天児屋根命、経津主命、六御縣神を祀り、第59代宇多天皇の時、891年(寛平3年)9月始めて官社に列して、春冬2度の班幣に預かり、演昭大僧正に大命があって超書ス寺が別当寺になりました。
後に第81代安徳天皇の時、1180年(治承4年)平重衡の兵火で焼失したが、朝家の尊崇厚く中御門左大臣家忠公の奏聞により、1190年(文治6年)4月再建され、1578年(天正6年)再び兵火で焼失しています。
戦前までの佐紀の秋祭りには、二條の宮(亀畑佐紀神社)には、天皇陛下から詔を勅使が来ていました。
西畑の佐紀神社は元々大国主神社であって、明治期に式内の佐紀神社を主張し始めた。

往古、延喜式に記載されるような神社であれば、神域は相当大きかったはずであるから。

護持院隆光墓
このあたりは平城京の北にあった松林苑跡の近くにあった超昇寺跡ではと推察されています。
徳川五代将軍綱吉は、儒教と仏教にて治世を行なったことで知られます。
東大寺知足院の亮賢という僧は桂昌院が綱吉を妊娠して以来の深い帰依があり、誕生した綱吉の顔に「天下をとる相がある」と言って桂昌院の心を掴んでしまいました。
綱吉が将軍になると、江戸高田薬園の地に護国寺を建てて亮賢を迎え、寺領千二百石。その亮賢の勧めで知足院に入ったのが隆光で、たちまち綱吉母子に気に入られ、知足院は神田橋近くに移されて護持院となる。神田橋は江戸城の鬼門にあたり、そこを守るから護持院と命名されたわけで、綱吉がいかに隆光を尊敬していたかが分かります。
徳松を亡くして悲しむ綱吉に、桂昌院を通じて「前世の報いを祓うためにご信心をと」ふきこんだのは隆光に間違いないとされている。生類憐れみの令はこうして生まれたようです。
その護持院隆光の墓が、この地にひっそりと祀られています。
唐招提寺の奥の院や出身地とされる羽曳野にも、五輪塔があります。

http://takiti.cocolog-nifty.com/tanuki/2005/08/post_1829.html

平城天皇陵(市庭古墳)
かつては直径100m超の最大級の円墳と思われていましたが、その後の発掘調査で前方部が平城宮建設のさいに削平されており、本来は墳丘の全長253m 前方部の幅164m 後円部の直径147mの前方部を南に向けた巨大前方後円墳であることが判明。(後円部についても周囲がかなり削られてしまっている。)
平城天皇陵に比定されているが平城天皇(806年即位)とは全く時代が合わない5世紀代の古墳である事が出土した埴輪片や古墳の墳形から判っています。

平城天皇(第51代)
桓武天皇の長男。孫に在原業平がいる。
奈良帝(ならのみかど)とも呼ばれた。

薬子の変
藤原薬子は藤原種継の娘で、式家の藤原縄主に嫁し三男二女を生む。長女が平城天皇の皇太子時代にその後宮に入ったことから、薬子は皇太子に近づき関係を結ぶ。平城天皇が即位すると薬子の兄藤原仲成も、天皇と薬子の関係を利用して天皇の側近となる。この様に仲成・薬子兄弟が平城天皇の側近となったことが薬子の変の伏線となる。
 平城天皇は809年(大同4年)4月病気を理由に神野皇太弟に譲位し嵯峨天皇の即位となり、平城上皇の皇子高岳親王が皇太子となった。
上皇は療養のために転居を繰り返すが、11月には右衛士督である藤原仲成を派遣して平城宮を造営させ、12月には上皇は平城に赴いた。
810年(大同5年)9月6日平城上皇は上皇の立場に置いて平安京を廃して平城京を皇都にする事を命じた。(二所朝廷)いよいよ天皇方と上皇方の対立が表面化したのである。日本後記はこの時の混乱を「遷都のことにより、人心創動する」と表現している。
素早く察知した天皇方が使者を出して伊勢・近江・美濃の三関を固めると共に、薬子の官位を剥奪し、藤原仲成を右兵衛府に監禁した。
天皇は美濃路から東国へ入ろうとする上皇方を要撃するため、大納言坂上田村麻呂らを発遣させる。
さらに、宇治・山崎の両橋と与渡津に頓兵を配置して平安京の南と西を防備し、左右近衛府の官人を遣わして、仲成を禁所において射殺。
天皇方の動きを知った上皇は、自ら東国に赴き兵力を結集し反撃に出る。
中納言藤原葛野麻呂らが東国入りを思いとどまるよう諫言したが、12日上皇は薬子と共に駕籠に乗って慌ただしく平城京を出発した。「陪従の人等、周章して図を失う」という状態であったという。
上皇が大和国添上郡越田村に至った所、天皇方の兵が前方を遮った。やむなく上皇は平城京に引き返し剃髪して仏門に入り、薬子は毒をあおいで自害した。


磐之媛陵
全長約219mで、古墳時代中期(5世紀)の築造とされます。
『日本書紀』では、仁徳天皇(第16代)陵が現在の大阪府堺市にあるにもかかわらず、皇后の墓が奈良にあるのは、仁徳天皇が別の女性を寵愛したことに怒った磐之媛命が、難波京にも戻らずにここに留まったためと伝えています。

磐之媛
葛城襲津彦の娘で仁徳天皇の皇后。
履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の母。
古事記に「甚多く嫉妬みたまひき」
嫉妬深く、夫のうわ気を許さず、夫の元に戻らなかったやきもち焼の女性として描かれています。
民間から、皇后になった最初の女性。
仁徳天皇と他の女性との関係で悩み、宮中を出て山城の国筒木宮で生活する。
古事記では磐姫皇后が新嘗祭に必要な「みつながはし」の葉をとりに紀州へ出掛けているときに、仁徳天皇が八田の若郎女という女性を宮廷に入れて寵愛したといいます。
それを知った磐姫皇后は激怒し、難波の宮廷には帰らず、舟で川を遡り山城の国の豪族の家に篭ってしまいました。
仁徳天皇は磐姫皇后の怒りをおさめるために自ら出向き、社殿の外で皇后のために心をおさめる歌を詠ったとされています。

「天皇を思ひて作りませる歌四首」

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (万葉集巻二 八五)
(あなたがお出ましになった時から 長い日々が過ぎました 山をこえ迎えに行こうか ひたすら待ち続けていようか)

かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを(万葉集巻二 八六)

(これほどに恋しくて苦しむのならば、いっそあの高い山の岩を枕にして死んでしまいたい(でもそれも出来ないし…))

ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに(万葉集巻二 八七)

(このままいつまでも あなたを待ち続けましょう 豊になびく私の黒髪が 白くなるまで)

秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ(万葉集巻二 八八)
(秋の稲穂の実った田に 立つ朝霞は 何処かへ消えていくけれども 私の恋心は晴れることがないので)

ちなみにこの磐姫皇后の連作は、新井満さん作詞で2009年の紅白歌合戦で小林幸子さんが詠われた「万葉恋歌 ああ、君待つと」の歌詞にも使われていて記憶に残っておられる方も多いのではないでしょうか。
1300年以上経っても人々の心を動かすことの出来る短歌の力というものにはほんとうに驚かされます。

ウワナベ古墳
全長255mで、西側には造り出し部がある。
造り出し部からは、土師器や魚形土製品などが出土のもよう。
「うわなり・こなみ」という言葉からきたものだそうです。
「うわなり」は後妻、「こなみ」は本妻を意味する言葉だとか。
元正陵に比定されていたこともあるようです。

コナベ古墳
全長204m
古墳時代中期の古墳とみられるが、墳丘で発見された埴輪からはコナベ古墳の方が少し早く築かれたと推察されています。

不退寺
本尊は聖観世音菩薩
平城天皇が仮住まいしたため「萱の御所」と呼ばれました。
平城天皇孫の在原業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」阿保親王の菩提を弔ったのが起源とされます。境内には四季折々、レンギョウ、椿、カキツバタ、菊などが咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンなどが見られ、500種類もの花々が咲き続けているようです。
本尊の木造聖観音立像と、木造五大明王像は平安時代の作で重文。本堂・多宝塔・南大門も重文に指定。

狭岡神社
霊亀2年(715)藤原不比等が自分の邸宅「佐保殿」の丘に、天神八座を祀ったことに始まったと伝わります
菅原天神の隠居ともいわれていました。
この辺りは狭穂姫と垂仁天皇のロマンスの場所のようです。
鳥居の左手に洗濯池・姿見池・鏡池が残っています。

長慶寺
融通念仏宗の、 佐保山普門院「長慶寺」です。
本尊は十一尊天徳如来。
吉村長慶師(1863~1942)が私費を投じて建立開基したお寺です。
境内の岩窟内に、十数体の観世音など金色の仏像が刻まれているそうです。
参道手前に「是より境内地 死んだ宗教を活かす長慶寺 神佛となるは生きた人間にかぎる」と掘られた石柱が立ちます。

常陸神社
御祭神 少名毘古那尊
明治16年に黒髪山から遷祀されたそうです。
「ひたち」が「ひだち」になってそれと産後の肥立ちとかけて、ここは女性の病気や子授けの神として崇められるようになったようです。

聖武・光明陵
聖武は天平勝宝8歳(756)5月2日に崩御した。翌三日には御装束司、山作司、造方相司、養役夫司が任命されて、聖武の葬儀、造墓の準備がなされました。5月15日には山陵に埋葬されますが、その様は佛に仕え奉るごとくであったといわれます。光明子は天平宝字4年(460)6月7日に崩御し、6月17日に葬られます。陵の南に眉間寺が創建されて山陵に奉仕したが、松永久秀が永禄年間(1558~70)に多開城を築城するとその郭内に取り込まれたようです。

棚田嘉十郎
万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の職にたずさわっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の造営をめざしたが、資金面で行き詰まる。以来、嘉十郎は、貧窮の生活のなか、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。
 明治43年(1910)平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会」が組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め嘉十郎の労がはじめて日の目を見ることとなった。しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推挙した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃、嘉十郎は、61歳の生涯を閉じた。
 苦難に満ちた嘉十郎の悲願は、支持者の努力により達成され、嘉十郎自刃の翌年、大正11年(1922)に国の史跡として保護されることとなった。


護持院隆光
慶安2年2月8日(1649年3月20日)- 享保9年6月7日(1724年7月26日))
江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。
1658年(万治元年)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、奈良・醍醐で密教を修め、儒学・老荘をも学んだ。1686年(貞享3年)5代将軍徳川綱吉の命により将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得た。1688年(元禄元年)には知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となった。1695年(元禄8年)には新義真言宗の僧では初めて大僧正となっている。
しかし、綱吉の死去と共に失脚。宝永6年(1709年)には江戸城への登城を禁じられ、筑波山知足院への復帰願いも認められず、失意の内に大和に帰郷し没した。墓所は大阪府太子町と奈良市の佐紀幼稚園裏の2カ所にある。
隆光は、綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受け、生類憐みの令を発令することを勧めたという説があったが、その時期に隆光がまだ江戸にいなかったことから、現在では否定されている。但し、京・奈良の寺社の再建を綱吉・桂昌院親子に奨めたのは隆光で、結果として幕府の財政悪化を招く原因になった。

吉村長慶
文久3年(1863)12月21日(陽暦では元治元年.1864 1月29日)奈良薬師堂町の質
商吉村家に長男として生まれる。幼名は登。父長七は廃寺になった眉間寺の寺裁(寺侍)から文久2年、吉村家の二女-志奈子の聟に入家した。
○ 明治12年数え17 才の時、慶応義塾に入学、間もなく退学して陽明学を学び、大隈重信ほかの立憲改進党の志と交わり、党の創設に加わる。明治14年帰郷。
○ 明治19年、結婚し家業の質商を営む。
○ 明治27年、日清戦争のバブル景気で長慶は北浜の相場で膨大な利益を得る。
○ 明治29年、数え34歳のとき分家して西ノ吉村家を興す。同年日清戦後の大陸へ渡り、上海を起点に中国各地を単独で旅行。
○ 同29年、高野山奥の院に吉村家の墓所を設置。宇宙菴を名乗り、様々な石碑を造る。吉村家の菩提寺である奈良市鳴川町の徳融寺に最初の長慶生前墓を建てる。この頃から狛犬や千度石といった無難な石造物を社寺に寄進する。
○ 明治31年、奈良市政発足に伴い、三級市会議員に当選。(納税額で選挙人がきまる制限選挙)以後再選を重ねる。
○ 明治39年、「畿内遷都論」(首都を東京から山城大和に遷都)を著し桂太郎内閣に建議。
○ 明治37年数え42歳、母の還暦を記念して石の「志奈子橋」を菩提川に建設。興福院墓所地に墳墓を築く。
○ 明治38年、欧米各国の宗教事情を視察、欧米の平和団体などに「世界平和會」賛同を呼びかける。このころ平和を記念する「諌鼓鶏」石灯を各地に奉納。高野山奥の院に二つ目の墓所を設け、武内宿禰碑(長慶の遠祖)。母志奈子の生前碑を建てる。
○ 大正2年、当選が危ぶまれていた二級市会議員に予想を覆しトップで当選。宗教活動が活発になり、石工・新谷信正を独り占めにして石の作品制作に拍車がかかる。
○ 大正5年、再び株取引に成功し財産を築く。箕面竜安寺に自分に似せた「ヒゲの大黒」を寄進。
○ 大正11年還暦、自身の寿像を連作。大阪平野大念仏寺に「長慶入棺の座像」、佐保山に長慶寺造営を計画。
○ 大正12年、長慶寺完成。長慶は得度して僧籍に入り、道号を普門長慶と称す。佐保川に長慶橋と下長慶橋を建設。川の内堤に「三聖人合掌の浮き彫り」と「宇宙教典」を設置する。
○ 昭和3年、長慶寺に居を移す。「昭和の信仰」出版し、既成仏教、新興宗教、迷信陋習を攻撃する。教義や宗憲を刻文した宗教的な石碑と、等身大の自像を多く造る。
昭和14年喜寿、奈良市旧一条通に「長慶庵」建て隠棲。戎大黒、夫婦大黒を数点つくり和を説く賛を記す。
昭和17年(1942)10月27日、長慶逝去、行年数え80歳(万78歳)。

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Author:奈良入門ガイド
歴史のもっとその奥へ!!

「歴史や寺社に興味のない人も、楽しくためなるご案内!」をコンセプトに、奈良入門ガイドや入門講座をやっています。
歴史文化を、どう日本人の糧と薬に出来るか日々模索中。歴史の心を全国に広め、世界の秩序向上に貢献出来れば幸いです。
「人々の安全保障」(全生物の、生活と生存を守ること)に貢献する事を、当面の目標としています。
奈良大学卒、奈良検定最上級、京都検定初級。

歴史精神文化というツールを用い、世の安寧を目指してゆければという願いを込め、京都の「平安」と奈良の「寧楽」を合わせて「安寧会(あんねいかい)」と名付けています。

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