「青衣の女人」に関する随想

現在開催中の東大寺の二月の法会、「修二会」において、
とっても幻想的で神秘的な逸話が伝えられています。

修二会の期間中、3月5日の夜と3月12日の夜に、過去の東大寺関係者の冥福を祈るために「過去帳」という巻物が読み上げられます。

鎌倉時代に修二会に参籠していた、集慶(じゅうけい) という僧侶がその過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたそうです。 集慶がとっさに低い声で「青衣(しょうえ)の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていったということです。

青衣の女人についてはこちらご覧下さい→http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie1-2.html

熱烈な修二会ファンの方々の間も非常に人気の高いお話であり、
3月5日と3月12日は深夜にもかかわらず、その「青衣の女人」のセリフを聴くために、二月堂の中は多くの聴聞客で満員になるほど、関心の高い行でありますが、

私は、この女人のセリフは、連日の烈しい行法で疲労困憊していた集慶師が、意識朦朧とした中で過去帳を読んでいた際、突然現れた女人の発言を聞き間違えたと推測します。
その聞き間違えたセリフが、そのまま現代にまで伝わったしまったのではないかと私は考えます。

では、実際の女人の発言は如何なるものであったのか。
女人が発した言葉は、
「なぜ我が子の名を呼び落としたのか」
ではなかったかと。

これを紐解く鍵は、東大寺創建にまつわる歴史にあります。

以下は、東大寺を創建した聖武天皇と光明皇后の略年譜です。

養老2年(718)聖武・光明子(後の光明皇后)夫妻に阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が誕生
神亀元年(724 )2月14日 聖武天皇即位(24歳)
神亀4年(727)9月29日 聖武天皇、光明子との間に皇子誕生(名は基王)
基王は聖武光明夫妻に生まれた唯一の跡継ぎ男子。
11月2日 聖武天皇、皇子(基王)を皇太子となす
しかし、基王は生まれつき健康が不安定だった。
神亀5年(728)9月13日 基王薨る。
聖武天皇の落胆は相当ひどく、公務の停止が三日間に及ぶ。
9月19日 那富山に葬る。
11月3日 聖武天皇、智努王を造山房司長官とし、28日智行僧9人を住まわせ、皇太子の菩提を弔う。
天平2年(730)光明皇后の発願により、施薬院・悲田院創設
天平13年(741)国分寺・国分尼寺建立の詔発布
天平15年(743)東大寺盧舎那仏像の建立の詔発布
天平勝宝4年(752)大仏開眼供養会。二月堂創建。実忠(28歳)により修二会創始

東大寺創建は、この一人息子である基王の夭折が、淵源である事は間違いないように思われます。
聖武・光明夫妻にはまず、718年に阿倍内親王という女の子が誕生します。
そして、727年に待ちに待った跡継ぎの男の子が誕生します。
つまり、一人目の女の子誕生から9年間待った待望の息子です。
お父さんの聖武天皇の喜びはエスカレートし、なんと生後一か月でこの跡継ぎ息子を皇太子にしてしまいます。
日本史上前代未聞の赤ちゃん皇太子の誕生です。
しかし、基王は生まれながらにして、重い病に罹っていました。
728年9月13日 基王は一歳の誕生日を直前にして亡くなられます。
基王崩御から14年後、都を転々と代えながらも、聖武天皇は疫病や争乱が続く世を鎮めようと、国分寺や大仏造立を決意されます。

この、天平15年に発布された「盧舎那仏像の建立の詔」を拝読すると、父親としての一人息子への思いが切に込められているように思われます。

『一本の草や一握りの土といったわずかな物でもかまわない。自発的に協力、参加しようと思う者がいれば、共に盧舎那仏を造るのに協力してほしい。』

よく「聖武天皇は仏教の力を利用して、国を治めようとした。だから大仏様を造った。」と教えられます。
私自身も歴史の時間に教わりましたし、ガイドさんにも教えていただきました。
これも聖武天皇の気持ちを察するに正しい解釈だと思いますが、私はもう一つ大きな個人的な意向があったように感じます。

「国民みんなで、亡き皇太子の菩提を弔ってほしい。」

3月5日と12日に読まれる過去帳には、東大寺に縁のある人々の名が書き連なれ聖武天皇などの歴史上有名な方も多く記載されていますが、その他に多くの一般人の名も書き綴られ、そして寄進や労役に参加した人々の人数も書かれています。
その人数を合計すると、延べ250万人ほどになります。
奈良時代当時の全人口は約500万人と言われます。
つまり、東大寺というお寺を造るのに、全人口の半分近い人たちが参加した事になります。

聖武・光明夫妻の願いは叶ったのです。
みんなに弔ってほしいという願いは叶ったのです。

そして、その大仏様が完成した年と同年に修二会も始まります。

修二会が行われている二月堂がある辺りには、生まれたばかりの基王が幼き力で懸命に病魔と闘っている時、聖武光明夫妻は若草山麓に祠を建て、177巻もの観音経と177体もの観音様を奉納し、来る日も来る日も交代交代で昼夜問わず赤ちゃんの容体回復を祈り続けます。
そのお父さんとお母さんの懸命の祈りもむなしく、神亀5年(728)9月13日基王は、闘病生活のみであったといえる1歳にも満たない人生を終えます。
同年、祠跡に基王の冥福を祈った山房が建てられました。
それから10年後、天平10年(738)に光明皇后が福寿寺というお寺を建てます。
二月堂は、その福寿寺跡地に建てられたと伝わります。
創建時期も、修二会が始まる頃とだいたい同じと言われます。

その二月堂には現在、二体のご本尊様がいらっしゃいます。
大観音と小観音の二体が安置され、修二会前半の七日までは大観音をご本尊とし、後半は小観音をご本尊とされて行法をされています。
どちらも絶対秘仏とされ、一般の人も東大寺の僧侶でさえも見る事が出来ない仏像ですが、その安置状況に修二会の根本的嚆矢が感じ取れます。
大観音は二月堂の中央にある内陣という部屋の須弥壇という台の上に、天蓋や幕に覆われて立っておられ、小観音は厨子に入れられ大観音の前に安置されています。

つまりこれ、父と子ではないかと察しています。

この二月堂は過去一度だけ全焼しています。
江戸時代に達陀松明の火が燃え移り火災になったようですが、その際も何はさておきこの小観音を真っ先に火中から救出されています。
これは何を意味するかといいますと、菩提を弔うその対象である基王を助けているという事になります。
やはり、この東大寺の修二会は基王が主役なのではと私は考えます。

では、この父(聖武)と子(基王)を見守っているのは誰か。
お母さんの光明です。

光明はご存じのようにとても慈悲深い人でありました。
病の人や貧しい人を救おうと、施薬院・悲田院創設し救済活動に尽力されました。
法華寺のから風呂における千人の施浴などの伝説として語り継がれるほど、実に人々から多くの感謝を受けた人でありました。

難病の人に薬を分け与えた時の目録である『種々薬帳』の巻末に、願文といわれる光明の直筆文があり、
「この薬を服用すると絶対に夭折しない」と祈るように書き綴られています。

一人息子を亡くした悲しみを背負いながら、人々に施しを与えてゆかれていた時も、常にその心中は約一年間息子の回復を祈り続けた二月堂界隈にあった事は容易に推測できます。

現在、その二月堂の下の食堂の西壁に、子供を守るといわれる鬼子母神がお祀りされています。
なぜそこに祀られているのか真意は詳らかではないですが、基王夭折と無関係ではないと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
修二会が満行したその翌日の15日、「達陀帽いただかせ」という幼児に達陀帽をかぶせ、丈夫で健康に育つ事を祈る行事があります。
これも無関係とはとうていおもえないのです。

鎌倉時代に集慶師の前に現れた女人は、自ら東大寺開基の良弁僧正に依頼しその高弟である実忠が初めたこの祈りの儀式の最中、耐え切れなくなって居たたまれなくなって、ついつい姿を現してしまったのです。

そして、過去帳にこの修二会の主役であるわが子の基王の名が無い事を嘆き、
「なぜ我が子の名を呼び落としたのか」
と問い詰めたと私は推測いたします。

過去帳には、東大寺創建に縁のある、聖武天皇や光明皇后、孝謙天皇(聖武の娘、基王の姉)、行基菩薩、良弁僧正(東大寺初代別当)、実忠和尚(修二会の創始者で良弁の高弟)、藤原不比等、菩提遷那(大仏開眼導師)などの人々の名が記載されていますが、家族が一人足りません。肝心要の主役がその中には名がないのです。

お母さんの心中、いかほどだったことでしょう。

また、その過去帳に記載されるその順序にも大きなポイントがあると思ってなりません。

よく言われる「青衣の女人」の箇所は、将軍頼朝から18人目と言われますが、
実は「青衣の女人」の真後ろにも、重要人物がおられます。
南都焼き討ち後の東大寺を鎌倉時代に再建した重源です。

光明はこの重源に感謝を述べたかったのです。

「みんなの力を合わせて作った大仏様をあんなに立派に修理して頂き、ありがとうございました。」

青衣の女人が現れた時にはもうすでに、重源さんは他界されていますが、きっとこの気持ちを伝えたかったのでしょう。
だから、鎌倉時代に現れたに違いありません。
 
少々出来すぎた話に思えますが、
「青衣の女人」を光明とすると、堂下に鬼子母神さんがいらっしゃるのも、達陀帽いただかせの行も、大観音と小観音も、その本尊の前にたくさんのお餅をお供えする事も、すべてあれもこれも、二月堂界隈の空間に張り巡らされたパズルが瞬時にカチッカチッと完成し見事に辻褄が合ってゆきます。
そしてそのパズルは大仏様にも、種々薬帳という正倉院宝物にも国家珍宝帳にも、法華寺のから風呂にも、また聖武の病気平癒を祈って建てられたといわれる新薬師寺、そしてお母さんの橘三千代の一周忌に建てられたと伝わる興福寺西金堂にも大きく大きくリンクしてゆきます。

つまり奈良は平成の現代も、光明の愛情に大きく大きく包まれた街であると言えます。

また、全国で虐待に苦しんでいる子供達とその親御さんにとっても、最良の薬になるのではないでしょうか。

奈良がすべき一番の仕事は、ここにあると思ってなりません。

「過去帳」は日本人一人一人を救う源泉と言えます。
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Author:奈良入門ガイド
歴史のもっとその奥へ!!

「歴史や寺社に興味のない人も、楽しくためなるご案内!」をコンセプトに、奈良入門ガイドや入門講座をやっています。
歴史文化を、どう日本人の糧と薬に出来るか日々模索中。歴史の心を全国に広め、世界の秩序向上に貢献出来れば幸いです。
「人々の安全保障」(全生物の、生活と生存を守ること)に貢献する事を、当面の目標としています。
奈良大学卒、奈良検定最上級、京都検定初級。

歴史精神文化というツールを用い、世の安寧を目指してゆければという願いを込め、京都の「平安」と奈良の「寧楽」を合わせて「安寧会(あんねいかい)」と名付けています。

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