スタッフご紹介!

<活動目的>

目標は、全国民に日本の原点である「奈良の心」を広める事。

そして、心豊かな日本国形成に寄与する事。

スタンス的には、アマチュアながらも奈良の伝道師として活動させて頂き、
より多くの人に奈良を伝え、奈良・大和路を愛してくださる方がお一人でも多く増え、
世の秩序が少しでも整ってまいりますよう、微力ながらお手伝いできればと思います。♪

日本という国、表向きは平和なお国柄ですが、
様々な災いが毎日絶えずどこかで起きています。
日々心を病む人が増えています。

苦しんでいる人を救う為に、日本の中に奈良があります。
奈良はあらゆる人々を助ける、 薬のような場所です。

そして、日本の襟を正す、教材のような場所です。

1300年を超える歴史叡智の蓄積は、それらに活用する為にあります。

奈良の存在意義は、益々重みを増してゆくものだと思います。

ひとりひとりの命を見つめる、奈良大和路。

<プロフィール>
松本俊幸
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兵庫県姫路市出身
<性別>男 <血液型>O型 <星座>魚座 

1991年奈良大学文学部国文学科卒

第四回奈良検定 奈良まほろばソムリエ(奈良検定最上級 2010年度最年少合格)
古都飛鳥保存財団認定 第一期飛鳥応援大使
2010年度 奈良県立図書館創立100周年記念「奈良・大和を愛したあなたへ」エッセィ館長賞受賞。

<興味範囲> 歴史の中に生きる人々の心

酒無飲 珈琲大飲 甘党菓子好 煙草無吸 食物嫌無 賭事無欲 電視台無見 理数系無能

MY FAVORITE BOOK



MY FAVORITE WORDS
人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行ないなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい 。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、作り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい 。

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
蹴り返されるかも知れません。 でも気にすることなく、

最良のものを与え続けなさい。  

~マザーテレサ~

MY NARA ISM
『年の瀬も押し迫った大晦日の夜、小さな少女が一人寒空の下でマッチを売っていた。
しかし、人々は年の瀬の慌ただしさから、少女には目もくれずに通り過ぎていった。
夜も更け、少女はあまりの寒さに耐えかねマッチに火を付けた。
そして、マッチ売りの少女は、最後の一本のマッチを擦った。

炎の中に大好きだったおばあちゃんの幻が現れた。
炎が消えると、マッチ売りの少女は永遠の眠りについた。

その眠り顔は、ほっぺを赤らげてにこやかにほほ笑んでいた。

大好きな大好きなおばあちゃんと一緒に、天国に登って行ったのだ。

大晦日の街角は、家路を急ぐ人やお正月のごちそうを買う人達で賑わう。

その厳寒の街角の片隅で、誰に気付かれる事も無く、
少女の屍はほほ笑みながら天へと昇る。』


この街角で一番幸せな人は、マッチ売りの少女だと信じたい。

おばあちゃん1人で、少女はこの上なく幸せな気持ちになれた。

人の幸せは、お金や物ではない。

自分を見守り、心から愛してくれる人がいるかどうか。

ではないだろうか。

人との繋がりに勝るものはない。

私は、この奈良大和路を、このおばあちゃんのような存在にできればいいなと思う。

辛く厳しい人生であっても、奈良に来られた時は、にっこりとほほ笑んで頂きたい。

そして、誰もがいつかは天へと還る時がやってきます。

その時、日本の心のふるさと奈良大和路に思いを馳せ

満面の笑みで天に昇って頂きたい。

奈良大和路は、ホスピスのような存在でもなくてはならない。


<趣味> 鉄道旅、美術館・博物館、映画館、図書館、寄席小屋、コンサート、甲子園、知らない街歩き、ヘリティジング、講座聴講

<読書> 和辻哲郎、司馬遼太郎、松本清張、中西進、犬養孝、清原和義、堀池春峰、毛利久、吉野裕子、直木孝次郎、梅原猛、山折哲雄、千田稔、東野治之、上野誠、西山厚、入江泰吉、岡本彰夫 (敬称略)
<ファン> 阪神、落合博満、矢沢永吉

<興味ある人々> 高市皇子、義淵、良弁、実忠、行基、聖武天皇、光明皇后、重源、貞慶、凝然、叡尊、忍性、公慶、隆光僧正、本居宣長、緒方洪庵、徳富蘇峰、棚田嘉十郎、溝辺文四郎、保田與重郎、和田軍一、橋本凝胤、上司海雲、谷井友三郎、御井敬三、清水公照、森本孝順、小川晴暘、吉村長慶、末永雅雄、田村きよの、稲葉珠慶さま、小林月史、沖真治さま、増尾正子さま、うだしげきさま、(敬称略)

<過去に講座、現地ウォーク等でお聴きした主な先生方>
中西進、犬養孝、清原和義、上田正昭、黒岩重吾、渡辺淳一、五木寛之、ドナルドキーン、大江健三郎、直木孝次郎、水野正好、梅原猛、河合隼雄、リービ英雄、門脇貞二、森浩一、松前健、吉田金彦、池田末則、青山茂、金関恕、笠置侃一、石野博信、岡田保造、和田萃、猪熊兼勝、菅谷文則、佐原真、木村尚三郎、上横手雅敬、和田嘉寿男、泉森皎、狩野久、千田稔、武田佐和子、鎌田道隆、浅田隆、白石太一郎、東野治之、立松和平、内田康夫、瀧浪貞子、坂本信幸、岡本彰夫、森谷英俊、大野玄妙、大脇潔、三宅久雄、山崎しげ子、里中満知子、鶴岡真弓、松田真一、前園美智雄、狭川普文、上司永照、河野良文、塩出貴美子、寺崎保広、上野誠、松岡正剛、西山厚、岩田茂樹、内藤栄、山上豊、田中豊、仁尾雅信、関根俊一、松木武彦、平雅行、来村多加史、山内英正、鹿谷勲、山川均、平岡譲、植松宏益、北村雅昭、橋本輝彦、井上さやか、馬場基、長谷川透、大西貴夫、戸花亜利州、河瀬直美、うだしげき、浜村淳、角淳一、谷村新司、篠山紀信、なかにし礼、新井満、池坊保子、ボランティアガイド朱雀さん、橿原市ボランティアガイドさん、桜井市ボランティアガイドさん、両槻会さん(順不同、敬称略)

twitter @yumeyamato
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テーマ : 奈良の歴史
ジャンル : 地域情報

興福寺ノート

興福寺には天災、人災をはじめ多くの困難を負いながらも、仏像や堂塔が失われることを身を挺して守ろうとした寺としての長い歴史がある。
それは今なお残る数々の名宝がそのことを物語る。
奇跡的としか言いようがない。
金子啓明(興福寺国宝館館長、東京国立博物館特任研究員)


歴史
藤原鎌足夫人の鏡女王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

略年表
大化元(645) この頃、鎌足が釈迦三尊像を造立
天智8(669)鎌足の妻、鏡大王が山階陶原(やましなすえはら)に山階寺を造営し、鎌足の釈迦三尊像を安置
天武元(672) 飛鳥浄御原宮遷都。
この頃、山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、厩坂寺と称す
天武14(685)山田寺講堂の薬師三尊像造立―銅造仏頭
和銅3(710)平城遷都。藤原不比等、厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と号す
和銅7(714)3月 金堂供養
養老4(720)10月17日 「造興福寺仏殿司」を初めて置く
養老5(721)8月3日 元明・元正天皇、北円堂建立。同日 橘三千代、金堂に弥勒浄土像を造る
神亀3(726)7月 聖武天皇、東金堂を建立
神亀4(727)12月 興福寺観禅院梵鐘鋳造
天平2(730) 光明皇后、五重塔建立
天平6(734) 1月11日 光明皇后、西金堂を建立。十大弟子・八部衆像等造立
天平18(746)1月 講堂本尊不空羂索観音像造立
天平宝字5(761)2月 東院西堂建立
天平宝字8(764)9月11日 東院東堂建立
弘仁4(813) 藤原冬嗣、南円堂建立



慶応4(1868)3月 神仏分離令発令
明治3(1870) 12月 寺社上知令が発せられ、堂塔以外のすべての寺地を没収される
明治7(1874) 食堂・細殿取り壊される
明治13(1880)2月14日 興福寺旧境内を奈良公園とする
明治14(1881) 2月9日 興福寺再興を許可される



平成9(1997)「興福寺境内整備構想」を発表
平成10(1998)10月1日 境内整備事業開始
12月2日 「古都奈良の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録される。
平成22(2010)興福寺創建1300年、中金堂立柱。

秋風や 囲いもなしに 興福寺 正岡子規

北円堂
現存する最古の興福寺建造物。
養老5年(721)、興福寺創建者の藤原不比等一周忌追善の為、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建立。伽藍の中では西隅であるが、平城京を一望に見渡せる一等地で、平城京遷都主導者であった不比等の霊を祀る最良の場所。
治承4年(1180)の被災後、承元4年(1210)頃に再建され、堂内は天井に天蓋が輝き、本尊弥勒如来像、法苑林(ほうおうりん)・大妙相(だいみょうそう)菩薩像、無著・世親菩薩像、四天王像が安置される。

西金堂跡
藤原不比等夫人の橘三千代が前年の1月11日に亡くなった一周忌に、娘の光明皇后が母の追善のために発願建立したもの。
規模は、現存する東金堂とほぼ同じで正面7間(約26m)、側面4間(約14m)、寄棟造りであったと想定される。
堂内には本尊釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、梵天・帝釈天像、十大弟子像、八部衆像、金剛力士像、四天王像などが安置されていた。

母の橘三千代は阿弥陀信仰者であり、娘光明も母の教えを忠実に尊ぶ阿弥陀信仰者であったが、光明が母のために作ったのは阿弥陀浄土ではなく、釈迦の霊鷲山説法の場面であった。釈迦としたのは、遣唐留学生から帰国した道慈が異国からもたらした最新の『金光明最勝王経』を尊重したからである。
光明という名前もこの経典に釈迦が前世に女人であったとして登場する福宝光明に由来すると考えられる。
『金光明最勝王経』の思想では懺悔が重要である。それは巻第二「夢見金鼓懺悔品(むけんこんくさんげぼん)」(夢に金鼓をみて懺悔する品)に詳細に説かれている。
「興福寺曼荼羅」には西金堂の下辺に金剛力士の間の空間に、やや不鮮明ながら金鼓それを打つ婆羅門が描かれている。(現存する華原馨)この場面こそ「夢見金鼓懺悔品」を形として表現したものだ。その内容とは次のようなものである。
「昔、妙幢菩薩が釈迦の素晴らしい教えを聞いて感激しその夜夢を見る。その中に大きな金鼓が現れる。金鼓は照り輝くように光を発している。そこからは仏たちが生まれてあふれ出てくる。仏たちはそこで法を説いている。夢の中に一人の婆羅門が現れて、撥を持って金鼓を打つと非常に大きな響きが発生した。その響きは微妙で心地よく我々を悟りに導いてくれるようである。その響きの素晴らしさは我々の心に懺悔を説く教えのように聞こえる。翌朝、妙幢菩薩は鷲峰山(霊鷲山)にいる釈迦の所に行きこのことを伝えた。」というものである。
西金堂諸仏のもとになったのは、この「夢見金鼓懺悔品」である。そこに説かれるのは釈迦への帰依と夢の物語として語られた懺悔である。懺悔とは自分が作った罪や業として受けた罪を内省し、心身を清めることである。夢に現れた金鼓はその素晴らしい音色によって罪と業を一気に消し去る効力を持っている。そして経の随所に『金光明最勝王経』を読むことでも、罪と業が消えると説かれている。
西金堂造営の目的は光明皇后による母の冥福祈願にある。光明皇后がそのために釈迦浄土像を作ったのは、最新の『金光明最勝王経』に感動したからだ。そして、自らも深く懺悔して釈迦に帰依し心身を清める事で亡き母の魂が極楽浄土に生まれることを祈願したのであろう。
(中略)
阿修羅は特定の者に視線を向けていない。八部衆の中で阿修羅だけが鎧を着ていない。阿修羅の目的は敵を威嚇し退散される事ではない。憂いを含んだ眼差しはもっぱら自分に向けられている。ここでは阿修羅自身が懺悔の手本を見る者に示している。それは無益な争いを繰り返した罪深い業を懺悔しているようだ。「夢見金鼓懺悔品」に出る婆羅門の打つ金鼓は響きを放って心を清め鎮める。その響きと対比させながら阿修羅は静かに自分を見つめ懺悔を繰り返す。その心の微妙な動きが厳粛で敬虔な表情を生んだのであろう。深く繊細なしんりがこれほどまでに見事に表現された例はかつてなかった。他の八部衆の少年たちも同様である。少年のすがすがしさは仏性を持っている。西金堂の八部衆の少年は霊鷲山の釈迦のそばにいて、静かに自分をみつめている。 金子啓明 興福寺国宝館館長

金光明最勝王経

釈迦霊鷲山説法図


『山階流記』(やましなるき)によれば、光明皇后は西金堂の本尊を阿弥陀像にするつもりだったという。そうであれば、阿修羅像は造られることはなかった。しかし、インドから来た仏師に反対される。仏師は釈迦像を造るべきだと言った。お釈迦さまのお母さん(摩耶夫人)はお釈迦さまを産んで7日後に亡くなった。難産だったのである。若いお母さんは、産まれたばかりの赤ちゃんに思いを残しつつ、この世を去った。そして何十年かが過ぎ、悟りを開いたお釈迦さまは、お母さんに会うために天の世界へ赴く。
天にたどり着くと、同行した文殊菩薩が摩耶夫人のところへ行き、あのときの赤ちゃんが今はブッダ(目覚めた人/悟りを開いた人)になって、あなたに会いに来ましたと告げる。うれしさのあまり、摩耶夫人の乳房からおっぱいがあふれ出す。数十年前にお釈迦さまがわずかに口にしたかもしれないおっぱいが、うれしくてあふれ出す。しかし、あの赤ちゃんがそんなエライ人になっているとは信じ切れない摩耶夫人が、「もしもそれが本当なら、このおっぱいよ、口に入れ」と念じて乳房をしぼると、おっぱいはぴゅーっと遠くまで飛んでお釈迦さまの口に入った。摩耶夫人、歓喜すること限りなし。お釈迦さま、歓喜すること限りなし。経典にはそう書いてある。それから摩耶夫人はお釈迦さまのもとへ行き、説法を聞いて、すべての苦しみすべての悲しみが消え去った。お釈迦さまはお母さんの恩に報いたのである。だから、亡き母を追慕して建てる西金堂の本尊は、お釈迦さまでなければならない。
 こうして本尊はお釈迦さまになった。ただしこれはあくまで伝承で、歴史的事実とは異なる。しかしいずれにせよ、お釈迦さまの周囲に並んだ八部衆の顔は子どものようだ。阿修羅も迦楼羅〔かるら〕も五部浄も、みんな子ども。十大弟子も、老けたお顔の老僧さえも含めて、なんだか子どものようにみえてならない。西金堂が母を想うお堂だからだろうか。
 光明皇后はお母さんから大きな影響を受けた。三千代は仏教を深く信仰していた。邸宅には仏堂が建てられ、多数の経典が置かれていた。母の死後、信仰とともに、それらも光明皇后が受け継いだ。
光明皇后が万感の思いを込めた西金堂の仏像とは心静かに向き合いたい。阿修羅を前にして、母を亡くした光明皇后の悲しみに思いを馳せよう。産んだばかりのわが子を残してこの世を去らなければならなかった女性の悲しみに思いを馳せよう。阿修羅と会う時には、八部衆に会う時には、寄り添うことが必要である。
 西山厚先生のエッセイより


中金堂建設現場
丈六釈迦如来像を中心に、薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像と2体の11面観音菩薩像の4体を脇侍(わきじ)に従え、四天王像、さらに養老5年(721)に橘三千代が夫不比等の1周忌に造立した弥勒浄土像も安置されていた。
 6回の焼失・再建の後享保2年(1717)に焼失し、約100年後の文政2年(1819)に仮堂として再建され

中金堂は平安時代以降、7回もの焼失、再建を繰り返す。

創建 和銅3年(710) 被災 永承元年(1046)12月24日
再建 永承3年(1048)3月2日 被災 康平3年(1060)5月4日
再建 治暦3年(1067)2月25日 被災 嘉保3年(1096)9月25日
再建 康和5年(1103)7月25日 被災 治承4年(1180)12月28日
再建 建久5年(1194)9月22日 被災 建治3年(1277)7月26日
再建 正安2年(1300)12月5日 被災 嘉暦2年(1327)3月12日
再建 応永6年(1399)3月11日 被災 享保2年(1717)1月4日
仮再建 文政2年(1819)9月25日 解体 平成12年(2000)7月31日


創建当初の中金堂規模は東西36.6m、南北23m、最高高21.2m、寄せ棟造、二重屋根、裳階付きで桁行(東西)9間、梁行(南北)6間の建物。

キャッチフレーズは「天平への回帰!」
藤原不比等が天平の仏教文化を切り開き常に寺の中心として機能した中金堂を復元することは、寺院としての中核を再構築する事に他ならない。
いつの時代も興福寺にとって天平は古典である。
中金堂復元の目的は、寺の中枢であるこの堂を復興する事で、宗教的・精神的支柱を復活させたいからである。そして、聖域としての伽藍全体も天平の昔日の姿に戻すことが悲願となっている。
これを果たすための再建は、平成22年(2010)に10月立柱式を終え、落慶は平成30年(2018)の予定。

南円堂
西国三十三所観音霊場第九番札所。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を祈り建立。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建。
堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、四天王像が安置される。
基壇築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝をまきながら築き上げたことが発掘調査で判明。この儀式には弘法大師空海が深く係わったとが伝わる。

三重塔
北円堂とほぼ同時期の興福寺最古の建物。
康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮が創建したが、治承4年(1180)に被災し間もなく再建。
東の須弥壇に弁才天像と十五童子像を安置し、毎年7月7日に弁才天供が行われる。

猿沢池
興福寺が行う「放生会」の放生池として天平21年(749)に、御蓋山から流れ出る率川を塞き止め造られた人工の池。
奈良時代に記録された『興福寺流記』には、「佐努作波池」あるいは「南花園四坊・在池一堤」とある。
池が作られる前は、興福寺が造営した花園があったと伝わる。
放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である。
猿沢池七不思議
、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分」
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川はなくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増えるいっぽうであるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くてもおかしくないような池。

大乗院庭園
寛治元年(1087)、隆禅(藤原政兼の子)が創建する。
、平安時代から江戸時代に栄えた門跡寺院のひとつ。(藤原氏の子弟が入室し、興福寺の別当職を排出していた。)鎌倉時代の南都焼き討ちによる焼失後に現在地に移り、廃仏毀釈の影響で明治初年に廃寺となるまで存続。現在、その敷地内の一部が奈良ホテルとなっている。

治承4年(1180)の平家による南都攻撃や室町時代の徳政一揆で荒廃したが、その後、経覚や・尋尊という2人の実力のある院主が相次いで登場し、奈良一帯の座を次々と支配下に収めて大いに栄えた。だが、戦国時代に入ると次々と所領を失って江戸時代にはわずか950石にまで縮小した。

庭園は、尋尊の依頼により、銀閣寺庭園を作った作庭の名手善阿弥によって改造される。将軍足利義政を始め公家たちがしばしば拝観に訪れ、以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられた。善阿弥は銀閣寺の庭を造った作庭の名手と評される。
中興に尽力した尋尊は、日記『大乗院寺社雑事記』を書き著し、後年、室町期の大乗院を知るうえで大変貴重な資料となる。
その庭園も、一時は奈良ホテルのテニスコートやパターゴルフ場が設置されたが、戦後その一部が整備され1958年(昭和33年)国の名勝に指定される。
1995年からは奈良文化財研究所による発掘調査と並行して、江戸時代末期の門跡・隆温が描いた「大乗院四季真景図」をもとに財団法人日本ナショナルトラストにより復元工事が進められ、2010年の平城遷都1300年祭に伴い一般公開を開始。

菩提院大御堂
十三鐘、また稚児観音や三作石子詰の伝承で知られる。
奈良時代には、この付近一帯は仏に供える四季の花が植えられていたと伝わる。
法相宗を中国から伝えた玄僧正が住んでいたとも伝えられるが、
発掘調査の結果、このように大きな建物が建てられたのは鎌倉時代以降と判明。
現在の建物は天正8年(1580)の再建。
堂内には本尊阿弥陀如来像、不空羂索観音菩薩像、稚児観音菩薩像を安置。

大湯屋
室町時代の再建。五重塔再建と同じ時期の応永33年(1426)頃が有力。
内部に床を敷かず、地面に直接鉄の湯釜を2個据える。南の湯釜はほぼ完形で、口径1.5m、胴径1.86m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らず、口径1.44mで平安時代のもの。

本坊
興福寺の寺務所。
平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ東室という東西に長い僧房の伝統を受け継ぐ。
表門は天正年間に建立された本瓦葺きの四脚門で、明治40年に菩提院北側築地の西方に構えられていた門を移築。北の持仏堂(大圓堂だいえんどう)は明治時代の建物で、堂内に聖観音菩薩像を安置。

五重塔
古都奈良のシンボル的な塔!!不比等の娘、光明皇后の発願による。
現在の塔は5回の被災・再建を経て、応永33年(1426)頃に再建。
高さ50.1mで国内第2位。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置。

東金堂
神亀3年(726)に聖武天皇が叔母の元正上皇の病気全快を願って建立。
創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界があらわされていた様子。
以来6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永22年(1415)に再建。
堂内には本尊薬師如来像、日光・月光菩薩像、文殊菩薩像と維摩居士像、四天王像、十二神将像を安置。

国宝館
食堂跡に建つ鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫。
昭和34年(1959)に奈良時代創建時の食堂外観を復元して建設。
地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存される。
旧食堂の本尊千手観音菩薩をはじめ、阿修羅を含む八部衆、十大弟子像、華原馨、板彫十二神将、天燈鬼・龍燈鬼像、梵天像、帝釈天像、さらに飛鳥の山田寺から運ばれた7世紀の銅造仏頭などを収蔵。

仏像ブームだという。
仏像に興味のある人が増えるのはうれしい。
しかし、興味だけの人が増えるのは悲しい。
仏像を大切に思う人がふえてほしい。

すべての仏像には、
造った人たちの願いが込められている。
すべての仏像には、
造られてから今までにその前で手を合わせた人たちの祈りが込められている。
だからすべての仏像は尊く、そして美しい。
西山厚(奈良国立博物館学芸部長)

参考サイト
興福寺公式HP、Wikipedia興福寺、奈良歴史漫歩、奈良国立博物館文化財アーカイブ、奈良観光

参考文献
魅惑の仏像阿修羅(毎日新聞社)、もっと知りたい興福寺の仏たち(金子啓明著 東京美術)、日本の古寺美術興福寺(保育社)、興福寺(小学館ビジュアル新書)、古寺巡礼奈良 興福寺(淡交社)、人物業書 県犬養橘三千代(義江 明子著)・光明皇后(林睦朗著 吉川弘文館)、阿修羅を究める(興福寺監修 小学館)、奈良興福寺 あゆみ・おしえ・ほとけ(多川俊映 興福寺貫首著 小学館)、奈良秘宝秘仏の旅(朝日新聞奈良総局)、奈良の寺寺(西山厚著 フジタ刊)

「興福寺の阿修羅像が八部衆(釈迦如来の眷属)のなかでただ一人甲冑を着けていないのも、お優しいお顔をしていらっしゃるのも、激しい争いというものを経験し、その虚しさや愚かさをクリアしているからなのです。

 なぜ現代の方々が阿修羅像に惹かれるのかと言えば、社会に存在するいがみ合いや足の引っ張り合いなど、そういう戦いの場面の苦しみから解き放たれたいと思うからでしょう。人々は自分も阿修羅のようになりたい、と憧れるのではないでしょうか。」



ここが「薪能金春発祥地」で、金春座は大和猿楽四座の1つ、秦河勝を祖、秦氏安を中興とし、大和の円満井座(えまいざ、又は竹田座)から出た一座で、その末流金春流は能楽五流の中で最古の流派です。室町時代中期に出た世阿弥の女婿・金春禅竹を中興の祖とし、彼が、1437年(永享9年)世阿弥から「花鏡」を伝授され、後に流風に新生面を開き、後の家元は桃山時代に全盛を極め、能楽の主役を演じるシテ方です。

右近の橘、左近の藤が植わる西国三十三所第九番札所「南円堂」は、813年(弘仁4年)藤原冬嗣が空海の助言で、不空院の「八角円堂」を雛型として、父内麻呂の為に創建し、その後4回焼失して、今の堂は、1741年(寛保元年)の立柱

初層の内陣には弘法大師の空海が、奈良県西吉野郡天川村の大峯本宮天河大弁財天社に祀られている弁財天を勧請された「窪弁財天」が安置されていますが、通常は秘仏で、毎年7月7日七夕さんの日に10:00~、行われる「弁財天祭」で、1日だけ開扉されます。

宮本武蔵と宝蔵院流槍術の使い手奥蔵院日栄

行基さんが亡くなった749年(天平21年)頃に印度の仏跡「瀰猴(びこう、大猿のこと)池」に模して築造され、周囲約360mの小さな池。

最初の御堂は、聖武天皇の奈良時代、733年(天平5年)玄僧正の建立ですが、現在の建物は1580年(天正8年)に再建され、昭和45年大修理されました。ご本尊は重文の木造阿弥陀如来座像、脇侍が観世音菩薩立像と勢至菩薩立像(いずれも鎌倉時代)、その他に不動明王座像や、朝近(ちょうきん)上人感得の秘仏稚児観音が安置され、子供の守本尊で交通安全祈願、入学及び進学の祈願仏です。

昔、興福寺の小僧さん達が御堂で手習い(習字の稽古)をしていた時、一頭の鹿が三作の大切な草紙(習字の紙)を食べたので、三作がケサン(文鎮)を投げると、鹿の急所に命中し、鹿を殺して終いましたが、当時、「春日大社の神鹿を殺した者は、石詰の刑に処す」と云う掟があり、三作は子供とは云え、13才にちなんで、一丈三尺の縦穴を掘って、死んだ鹿を抱いて縦穴へ入れられ、石と瓦で生き埋めにされました。三作は、父が早く亡くなって、母1人子1人で暮らしていたが、その日より母「おみよ」さんは三作の霊を弔う為、明けの七つ(午前4時)、暮れの六つ(午後6時)に鐘を撞いて供養に勤めると、49日目に観音様が現れて、それが現在大御堂に秘仏として安置されている「稚児観世音菩薩像」で、境内に「三作の供養塔」が建ち、この悲話は、越前生まれの浄瑠璃・歌舞伎作者「近松門左衛門(本名杉森信盛)」、別号巣林子(そうりんし)が1700年頃(元禄年代)世話浄瑠璃「十三鐘」と題して脚本し、有名になりました。


阿修羅展
造仏所作物帳

http://www.kohfukuji.com/
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm056.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/508
http://asura.kokaratu.com/home.html
http://www.kokuhoworld.com/063.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-100.html

http://novel18.syosetu.com/n0807h/

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正倉院ノート

「二月堂」 

二月堂は、修二会が始まる頃とだいたい同じころに建てられたと言われます。
修二会が始まったのは、752年。大仏開眼供養会と同じ年であります。

では、それ以前はここになにがあったかと申しますと、福寿寺というお寺がありました。

もともと、この辺りから東大寺が始まったと言われます。

この、二月堂から三月堂・四月堂にかけた辺りを、上院地区と呼びますが、この上院地区が東大寺の中でも一番古いスポットになります。

その上院地区に、この二月堂の前に存在した福寿寺がありました。。

福寿寺は天平10年(738)に光明皇后が建てられたお寺であります。

その前には、基王の冥福を祈った、山房がありました。神亀5年(728)

聖武光明夫妻はここに、177巻もの観音経と177体もの観音様を奉納し、毎日毎日祈願を続ける。


ここからは、私の単なる個人的な想像なのですが、

修二会は基王の冥福を祈るためのもの。

そして、この二月堂の本尊は絶対秘仏であります。
大観音と小観音の二体あるようです。
これ、僕は何となくお父さんと息子さんのようにも思えるのです。

この東大寺の修二会というのは、お母さんの光明皇后の壮大なる愛情のこもった法要であるともいえると思います。

聖武天皇は天平勝宝8歳(756)5月2日に亡くなった。56歳だった。

 それから49日が過ぎた6月21日、光明皇后は聖武天皇が大切にしていた六百数十点の品々を東大寺の大仏に献納した。これが正倉院宝物の始まりとなる。

 なぜ、光明皇后は聖武天皇の遺愛の品々を献納したのだろうか。

 普通、ご主人が亡くなって大切な品が残されたとき、奥さんはそれを自分の手元に置いて(少なくともしばらくは)大事にするものだ。よほどイヤなご主人で、亡くなってせいせいしたという場合は別だが……。そうであるならば、なぜ光明皇后は聖武天皇の遺品を手元に残さず、すべてを手放してしまったのか。

聖武天皇が大切にした品々は光明皇后にとっても思い出の品であったはず。それが手元にあれば、当然のことながら目に触れるだろう。目に触れると、さまざまなことが思い出される。聖武天皇が元気だった頃のこと、ふたりが幸せだった日々のこと。それがあまりに悲しくて、そして辛くて、光明皇后には耐えられない。悲しみの余り、心が崩れ、摧〔くだ〕けてしまう。そうであるならば、思い切ってすべてを大仏に献納し、あわせて聖武天皇の冥福を祈りたい。光明皇后が宝物献納を決意したのは悲しみに耐えられなかったからである。

宝物に聖武天皇の痕跡を見出すたびに、光明皇后の体の奥に刀で切られたような鋭い痛みが走ったのではないか。分かる気がする。私的なものほど思い出は深くなる。正倉院宝物は、ひとりの女性の耐え難い悲しみから生まれたことを記憶しておきたい。

聖武天皇遺愛の品々を大仏に献納した同じ日に、光明皇后は60種の薬を21合の唐櫃に納めて大仏へ献納した。聖武天皇は若い頃から病気がちだったので、これらの薬は聖武天皇のために集められたものであろう。しかし聖武天皇はもういない。薬があってもそれを服する大切な人がいない。それでは意味がない。目に触れると辛くなるばかり。そこで光明皇后はこれらの薬も大仏に献納することを思い立つ。献納時の目録である『種々薬帳〔しゅじゅやくちょう〕』をみると、これらの薬は病に苦しむ人たちのために用いてもらいたいものであり、これを服すと「万病悉除(どんな病気も治る)」「千苦皆救(どんな苦しみも消える)」と書いてある。そしてさらに「無夭折(幼くしてしぬことはない)」とあるのが胸を打つ。

 光明皇后の子どもは夭折した。

『種々薬帳』の文言を記しながら、光明皇后は今は亡き聖武天皇のことを思い、そして同じく今は亡きわが子のことを思ったに違いない。これらの薬は光明皇后の願い通りに使用され、光明皇后が創設した施薬院にもしばしば提供された。それでも60種のうち40種が正倉院に現存しており、正倉院展にも時折展示されている

1歳の誕生日を迎えるその直前に愛しい息子を亡くしたという出来事が、
この夫妻の心の奥底に一生涯こびりついてゆきます。
「心の傷」。
今風でいうと、メンタル持ちといったところでしょう。
光明は、世の人々に「病に苦しんでいる人のために必要に応じて薬物を用い、服せば万病ことごとく除かれ、千苦すべてが救われ、夭折することがないように願う」
この光明皇后の想いとはいったい何なのでしょう。
「自分の子供は赤ちゃんで亡くなってしまったけれども、皆さんの子供は元気で育って下さい。」と言っているのです。
本心から願っているのです。
実際に、願いどおり薬物は持ち出されて病人を救うために役立てられたようです。
光明皇后は、貧しい病人に施薬や施療をするための施薬院や、貧窮者や病人、孤児などを救うために悲田院を創設しました。
仏教に深く帰依し、東大寺大仏造立を成し遂げた天皇が大仏開眼からわずか4年で崩御されたため、皇后はたいそうお悲しみになったようです。もともと、体が丈夫でなかった天皇を心配してさまざまな薬物を揃えていました。

そして、なによりの薬はこの光明の慈悲深い心です。
幼児虐待事件が続き、親子のいさかいが絶えない時代に、奈良にはこんなにすごい道徳的薬があります。

虐待家庭にこの薬をぬってゆきたいです。
 
「聖武光明御陵」 
聖武光明夫妻は、非常に仲のいい夫婦でありました。
こちらご覧くださいませ。
今も仲良く御陵もぴったり引っ付いて、並んでいます。
自分たちが日常使っていたものが、約1300年後にこんな人気になってるなんてその品々を使っていた当時は想像していたでしょうか。
この御陵からどのように正倉院展の盛況をご覧になられておられるでしょう。

ではここで、もう一度、先程の国家珍宝帳をご覧ください。

先程の願文の前、これがこの国家珍宝帳の最後の品になります。

みなさんこれ、なんだと思われますか?

ベッドです。

光明にとって、これが一番の思い出の品であったのではないでしょうか。

ふたりの思い出がぎっしりと詰まったこのベッドを、聖武天皇の死後、部屋にぽつんと残されているのを見て、あらゆる思い出が噴出してきてやりきれなくなったのだと思います。

もちろん、本人に聞かないと分からない事ですが、
「触目崩摧」のその対象の品は、このベッドではなかったかなと思うのです。

最初の出会いの時、二人で仲良く過ごした日々、基王を身ごもった時、苦しい時代に支えあった事、
様々な思い出が噴出してきて、耐え切れなくなり全てを手放したと思われます。

「心が軽くなっている時代」

生まれたばかりの幼児が、放置され衰弱死する事件が絶えません。
親子どうしで殺しあう事件もいっこうに減りりません。
自殺者数も目を覆います。

もう、打つ手はないのでしょうか。

一つの要因として

「心が軽くなっている時代」

もあると、私は考えます。

昨今、仏像ブームなるものが流行りだして久しいですが、

私はこの仏像ブームにも、「心が軽くなっている時代」を見てしまいます。

この世に存在する全ての形あるものには、それに携わった人々の切なる思いが染み込んでいます。

~ こころ と かたち ~

これが一対になって初めて、寺社参拝や展覧会鑑賞が完成するものだと、私は考えます。

仏像ファンの方達が求めているもの。

崇高なる美しさ、かわいさ、癒し、イケメン・・・。

もちろん、これらを求めてゆく仏像鑑賞も、とても素晴らしい事であります。

美しいものを見たままに、ストレートに美しいと感じる感性。

とてもとても、素晴らしい事であります。

しかし、

昨今の仏像ブームは、形のみに偏りすぎているように思えてならないのです。

“製作者の意図”

これが、あなりにも小さくなりすぎているように思えてなりません。

当然のことですが、仏像は誰かが造らないと存在しません。

その誰か、つまり発願者や製作者はどのような思いを込めて、その仏様を造ったのでしょう。

おそらく、「仏像を作ろう、お寺を建てよう」と思う人は、苦しい人悲しい人辛い人、だと思ってまず間違いありません。

なんの悩み事もなく人生バラ色だらけの人が、「仏像を造ろう、お寺を建てよう」なんてまず思うはずありません。

製作者は、藁をもつかむような思いで、すがるような思いで、切実な思いを込めて仏像を造っているはずです。

大切な人がもういよいよ旅立とうとしているその時、

「もう駄目かもしれない。」と分かっていながらも、
「助けて下さい。救って下さい。」と心の奥底から必死に祈りながら。


昨今の仏像ブームは、その心の部分が置き去りになっているように思えてなりません。

「どこそこのお寺で秘仏が公開されるらしい。」

多くの仏像ファンは、素早くそれらの情報を察知し、長蛇の列を作られます。

たくさんの参拝者の中で、その秘仏の精神部分を鑑賞されている方は、どれほどおられるでしょうか。

また、

仏像というものは古ければ古い仏像ほど、その仏像に対して手を合わせ祈りを捧げた人々の数も膨大です。

飛鳥・奈良時代に造られた仏像であれば、約千三百年以上もの長い時間の中で、いったいどれ程の人々が切実な思いを込めて祈った事でありましょう。

お寺のお堂に安置され文化財として管理される仏像には、何万・何十万(人気のある仏像ならもしかすると何億)もの人々の切なる気持ちが染み込んでいます。

これら各時代の参拝者の、けなげな祈りの心を汲み取ってゆくという鑑賞方法が、心が混沌とする現代社会にとって大切になってくるものだと私は思います。

歴史の中の気持ちを汲み取ってゆくという訓練を重ねると、周りの人たちへの気持ちの汲み取り方も変わってくるように思います。

虐待、殺人、誹謗、ハラスメント、詐欺、いじめ、差別、テロ、戦争・・・。

これら、全部減ってゆくのです。

無くなってゆくのです。

聖武天皇は、「動物も植物もみんな一緒に幸せになろう」と訴えました。

近づいてゆけるのです。

~ こころ と かたち ~

「歴史の中の気持ちを汲み取る」という訓練の場として、奈良はこの上ない聖地であります。

奈良のあちらこちらに、キラリと光る教材が点在しております。

もちろん、正倉院宝物においても、心を学ぶ教材として最高級の至宝であると私は思います。

春日参道

一之鳥居(いちのとりい)
平安後期創建と伝わり、現在のものは寛永11年(1638年)に再建されたもの。
古くは春日大社と興福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居。
3月の春日祭や12月の春日若宮おん祭の際には大きな榊が立てられる。

影向の松(ようごうのまつ)
「春日権現験記」にも描かれており、若宮おん祭には、この松の前で「松の下式」が行われる。
「教訓抄」という書物には、松はとくに芸能の神の依代(よりしろ)であり、能舞台の鏡板に描かれている松の絵のルーツとされる。

馬出橋(まだしのばし)
表参道は馬場でもあり、参道中このあたりだけ直線になっており、
その始点がこの橋で、現在も若宮おん祭の競馬はここから出走する。

飛火野(とびひの)
古くは「とぶひの」ともいわれ、鹿島大明神が春日地にお着きになられたとき、八大尊様が光明のため口から火を吐かれ、その炎がいつまでも消えず飛んでいる様に見えたことからこの名がついたとも、飛火が古代の通信施設「烽火(のろし)」の意味ともいわれる。

勝敗榊(しょうはいさかき)
競馬の決勝は馬止橋(まどめばし)でしたが、明治維新後に競馬を再興されたときに、当時の水谷川忠起宮司らの寄進により植栽され、現在の若宮おん祭の競馬の決勝点とされています。

御旅所(おたびしょ)
12月17日に春日若宮おん祭の御旅所祭が行われ、午後10時ごろまで古典芸能が奉納される。
中央の芝舞台は芝居の語源ともいわれる。

参道のムクロジ
幹周/4.58m、樹高/15.5m。
国博の庭にある竹の根がムクロジ下まで伸びて、たまたま筍として頭を出したところが、この樹の幹の空洞だったと言うことらしい。

飛火野の大楠
明治41年(1908年)に明治天皇が、陸軍の大演習で臨席された場所に記念に植えられたクスノキで、樹齢100年。
3株から成っていて、主幹は樹高25m、幹周り4.5mである。3株を合わせた幹周りは11.0m

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奈良町小寺巡礼資料

阿弥陀寺
もとは、「元興寺」の一庵「龍樹庵」で、国重文の「絹本著色観経十六観相図」を蔵している。
奈良時代に光明皇后によって建立された日本最初の悲田院が、興福寺や南城戸町を経てここに残る。
奈良奉行大久保長安の供養塔があり、奈良奉行中坊家代々の墓所もある。

十念寺
鎌倉時代中頃、忍性が添上郡八条村(現大安寺の八条町)に創建した寺で、天正期に現在の南風呂町に移建される。現在の本堂は享保期の再建。
「白粉(おしろい)地蔵さん」が安置され、この地蔵尊に祈願し叶えて頂くと、お礼にお化粧してあげるという行事が8月にあり女性の人気を集めている。そのため頬や唇に紅、白粉が塗られている。その堂の裏に忍性の供養塔がある。

忍性・・・11歳で信貴山で学び17歳で東大寺で受戒、西大寺中興の叡尊に師事し、ハンセン病患者救済施設の北山十八間戸を開設。般若寺等多くの寺院の建立や多くの井戸や橋建設に尽力。後半生は北条氏の招きで鎌倉へ行き慈善活動に励み、1303年に87歳で死去。遺骨は鎌倉の極楽寺、生駒の竹林寺・大和郡山の額安寺に分骨される。

正覚寺 
平安時代、鹿ケ谷の陰謀に参画した俊寛僧都が、鬼界ヶ島へ流された後、島を抜け出し、ここに隠れてたと云う伝説が残る。

鎮宅霊符神社
「元要記」に永久5年(1117)に社殿建立とある。
祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。霊符信仰では北極星の神霊が祀られる。
明治の中頃までは、陰陽師の末裔により「南都暦(奈良暦)」が作られていた。
鎮宅霊符はあらゆる災いを避けると珍重され、今でも近隣の氏神である御霊神社で授与されている。

西光院
最初は元興寺の子院であったが、現在は華厳宗の寺院として残る。
弘法大師(空海)裸像(特別開扉は毎年4月20日~4月30日の10日間。木造で秘仏。)

元興寺小塔院跡
現在元興寺極楽坊収蔵庫内に現存する国宝「五重小塔」が立っていた場所。
その当時は西小塔院であったが、宝徳3年(1451)の土一揆による大火で殆どの堂宇が焼失
現在は江戸時代に建てられた「虚空蔵堂」(仮堂)と、護命(ごみょう・奈良時代の法相宗の僧)の供養塔が在るのみ。

安養寺
中将姫が開祖で昔は「横佩堂」と称していたが、後に阿弥陀三尊を安置されてから「安養寺」と改められる。別名「大和善光寺」と呼ばれ、毎年11月23日(祝)「勤労感謝の日」に善光寺さんでは、多くの参拝者で賑わう。

誕生寺
藤原豊成の邸宅跡で、中将姫誕生の地と伝わる。
中将姫の産湯に使ったとされる井戸や二十五菩薩石仏が並ぶ。
中将姫・豊成・紫の前(生母)の御殿が並んでいた事から、三棟殿とも称される。
毎月4月13・14日に浄土曼荼羅と中将姫像が開帳される。

称念寺
1168年、重源が宋より帰国後開山。元は「元興寺築地院」であり、鎌倉時代「称念寺」に改められる。
江戸時代初期、このあたりに辻堂が在り、傍らに1本の大樹が繁っていたので「木辻町」と呼び、1629年(寛永6年)遊郭が造られ、井原西鶴の「好色一代男」にも書かれた竹格子の有る色街として賑わい、遊女死亡の際には引導寺となる。
1693年に松尾芭蕉が詠んだ「菊の香や奈良には古き仏たち」の句碑は、県下最古の芭蕉の句碑。

高林寺
宝亀年中(770-781)に藤原魚名の娘が姫に仕えて尼となり、豊成の廟堂を守った縁によって居室が尼寺になったということである。天文3年(1534)現在地に再建されたが衰微、文化年間(1804-18)に寿保尼という女僧によって現在の姿に再建された。本堂には豊成郷と中将姫の木像がまつられている。豊成の墓と伝える古墳がある。



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http://homepage3.nifty.com/kimura1/Naran88temp/index.htm

古寺巡礼奈良 當麻寺 淡交社
奈良町風土記 山田 熊夫 豊住書店
奈良の昔話 増尾正子著 まほろば出版局
中将姫物語 川中光教編 當麻寺
女性と仏教 奈良国立博物館
聖なる女 斎宮女神中将姫 田中貴子著. 人文書院
中将姫佛教説話 大屋徳城著. 法文館
中将姫説話の調査研究報告書 元興寺文化財研究所
ならまち通信 ならまち振興財団
當麻曼荼羅縁起
中将姫物語 阿波谷俊宏 徳融寺長老著 徳融寺
中将姫を想像する 徳岡孝夫 徳融寺
続大和路をめぐる 山路麻芸著 春秋社
大和奈良かくれ古寺巡礼 嵯峨崎司朗著 実業之日本社
高坊高林寺 稲葉珠慶著 高林寺
奈良まほろばソムリエ公式テキスト 山と渓谷社

奈良の民話「中将姫物語」~光の中へ
http://taketokiri.sakura.ne.jp/move/tyuujouhime.htm

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中将姫

中将姫物語概略
聖武天皇の頃、右大臣藤原豊成(藤原南家 武智麻呂の長男)と紫の前(品沢親王の息女)夫婦は子に恵まれず、桜井の長谷寺へお参りし観音に祈願する。
願いがかない、天平19年(747年)8月18日、中将姫が誕生した。
奈良市三棟町の「誕生寺」はその出生地とされる。
藤原四家のなかでも、当時最も力のあった南家の右大臣藤原豊成の娘として出生した彼女には、輝かしい未来が約束されているはずだった。が、しかし.....
5歳の時、生みの母の紫の前が亡くなる。ここから、中将姫の人生は、辛く、悲しく、苦しみの連続となってゆく。
7歳の時、父豊成は照夜の前(橘諸房の娘)を後妻に迎えた。
8歳の時、継母に豊寿丸という男児が生まれた。豊寿丸を溺愛するあまり、継母は中将姫を邪魔者扱いするようになってゆく。さらに、その年の春、孝謙女帝の御前で節句の祝賀が催され、中将姫は見事に琴を弾き、女帝からたいそう褒められ三位中将の位を賜った。だが、照夜の前は箏の演奏が上手くいかず宴席で恥をかく。
このため、中将姫に対する嫉妬が益々強くなり、憎むようになった。
中将姫に対するいじめはどんどんエスカレートし、裸にして雪をかけたり、毒を盛ったりして、中将姫の命をも狙うようになった。
こうして照夜の前は、何度も中将姫の殺害計画を立てたが、いずれも成功には至らなかった。
10歳の時、継母は姫の毒殺を図るが、誤って我が子の豊寿丸が毒を飲み亡くなってしまった。
14歳の時、父の豊成は、諸国巡視の旅に出た(一説には、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されたと言われる)。
これを好機として、継母は中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太夫妻に、宇陀菟田野の雲雀山で姫を殺すように命じた。
しかし、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない姫の心優しさを知っていた嘉藤太は、中将姫を殺すことができなかった。
嘉藤太は、照夜の前を欺いて、姫を雲雀山の青蓮寺へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた。
中将姫は、そこで草庵を結び念仏三昧の生活を送る。
筑紫から都に戻った豊成は、照夜の前から中将姫の死を知らされて嘆き悲しんだ。しかし、翌年、たまたま宇陀に狩猟に来て山入りした際に、洞窟で一心に読経するやつれた女性に出合った。初めはお互いに父娘とわからなかったが、そのうち姫が気づき、涙を浮かべ父のふところに飛び込む。
娘との再会をはたした豊成は、中将姫を奈良の都に連れ戻した。
照夜の前は、慚愧の念に堪えかねて、池に身を投げて自害する。
16歳の時、后妃の勅を賜わった。だが、世上の栄華を望まない姫は、二上山山麓の当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心した。
当時の當麻寺は女人禁制でしたが、中将姫が3日間一心にお経を唱えた所、修行していた石に姫の足跡がつくという奇跡がおき、入山を許される。
17歳の時、実雅法師によって髪をおろして出家して「法如尼」となった。出家した姫は、称讃浄土経一千巻を書写して、当麻寺の経蔵に納めた。法如尼は、生身の弥陀を拝みたいと、日頃から念じていたが、ある時、霊感を得て、「われは長谷観音の化身である。生身の仏を拝みたいならば、百駄の蓮華の茎から繊維をとって曼陀羅を織るがよい」という仏の言葉を聞いた。そこで、父の助けを得て、近江・大和・河内から蓮の茎を集めて糸を採り、現在の石光寺の庭に井戸を掘って、あふれ出る水に糸を浸したところ、みるみる五色に染まった。中将姫は3束の藁と2升の油で灯りをつけ、一節の竹を軸にして1丈5尺の当麻曼茶羅を一夜で織りあげたという。
宝亀6年(775)年3月14日 29歳の春、雲間から一丈の光明とともに生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れて、仏道に精進を続けた中将法如尼を生きながら西方浄土へ迎えた。

阿弥陀寺 → 十念寺 → 正覚寺 → 鎮宅霊符神社 → 西光院 → 元興寺小塔院跡 → 安養寺 → 誕生寺 → 静観荘 → 称念寺 → 高林寺門前  → 徳融寺 → 悲田院跡

阿弥陀寺(あみだでら)浄土宗安養山浄土院
もとは、「元興寺」の一庵「龍樹庵」で、国重文の「絹本著色観経十六観相図」を蔵している。
奈良時代に光明皇后によって建立された日本最初の悲田院が、興福寺や南城戸町を経てここに残る。
奈良奉行大久保長安の供養塔があり、奈良奉行中坊家代々の墓所もある。

十念寺(じゅうねんじ)浄土宗西山深草派忍性山愛染院
鎌倉時代中頃、忍性が添上郡八条村(現大安寺の八条町)に創建した寺で、天正期に現在の南風呂町に移建される。現在の本堂は享保期の再建。
「白粉(おしろい)地蔵さん」が安置され、この地蔵尊に祈願し叶えて頂くと、お礼にお化粧してあげるという行事が8月にあり女性の人気を集めている。そのため頬や唇に紅、白粉が塗られている。その堂の裏に忍性の供養塔が立つ。

忍性(にんしょう)・・・11歳で信貴山で学び17歳で東大寺で受戒、西大寺中興の叡尊に師事し、ハンセン病患者救済施設の北山十八間戸を開設。般若寺等多くの寺院の建立や多くの井戸や橋建設に尽力。後半生は北条氏の招きで鎌倉へ行き慈善活動に励み、1303年に87歳で死去。遺骨は鎌倉の極楽寺、生駒の竹林寺・大和郡山の額安寺に分骨される。

正覚寺(しょうがくじ)浄土真宗本願寺派 暁光山
平安時代、鹿ケ谷の陰謀に参画した俊寛僧都が、鬼界ヶ島へ流された後、島を抜け出し、ここに隠れてたと云う伝説が残る。

鎮宅霊符神社 (ちんたくれいふじんじゃ)
「元要記」に永久5年(1117)に社殿建立とある。
祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。霊符信仰では北極星の神霊が祀られる。
明治の中頃までは、陰陽師の末裔により「南都暦(奈良暦)」が作られていた。
鎮宅霊符はあらゆる災いを避けると珍重され、今でも近隣の氏神である御霊神社で授与されている。

西光院(さいこういん)華厳宗、紫雲山
最初は元興寺の子院であったが、現在は華厳宗の寺院として残る。
弘法大師(空海)裸像(特別開扉は毎年4月20日~4月30日の10日間。木造で秘仏。)

元興寺小塔院跡 (がんこうじしょうとういんあと)真言律宗
現在元興寺極楽坊収蔵庫内に現存する国宝「五重小塔」が立っていた場所。
その当時は西小塔院であったが、宝徳3年(1451)の土一揆による大火で殆どの堂宇が焼失
現在は江戸時代に建てられた「虚空蔵堂」(仮堂)と、護命(ごみょう・奈良時代の法相宗の僧)の供養塔が在るのみ。

安養寺(あんようじ) 西山浄土宗
中将姫が開祖で昔は「横佩堂」と称していたが、後に阿弥陀三尊を安置されてから「安養寺」と改められる。別名「大和善光寺」と呼ばれ、毎年11月23日(祝)「勤労感謝の日」に善光寺さんでは、多くの参拝者で賑わう。

誕生寺(たんじょうじ)浄土宗異香山法如院
藤原豊成の邸宅跡で、中将姫誕生の地と伝わる。
中将姫の産湯に使ったとされる井戸や二十五菩薩石仏が並ぶ。
中将姫・豊成・紫の前(生母)の御殿が並んでいた事から、三棟殿とも称される。
毎月4月13・14日に浄土曼荼羅と中将姫像が開帳される。

称念寺(しょうねんじ)浄土宗一心山築地院
1168年、重源が宋より帰国後開山。元は「元興寺築地院」であり、鎌倉時代「称念寺」に改められる。
江戸時代初期、このあたりに辻堂が在り、傍らに1本の大樹が繁っていたので「木辻町」と呼び、1629年(寛永6年)遊郭が造られ、井原西鶴の「好色一代男」にも書かれた竹格子の有る色街として賑わい、遊女死亡の際には引導寺となる。
1693年に松尾芭蕉が詠んだ「菊の香や奈良には古き仏たち」の句碑は、県下最古の芭蕉の句碑。

高林寺(こうりんじ) 融通念仏宗
宝亀年中(770-781)に藤原魚名の娘が姫に仕えて尼となり、豊成の廟堂を守った縁によって居室が尼寺になったということである。天文3年(1534)現在地に再建されたが衰微、文化年間(1804-18)に寿保尼という女僧によって現在の姿に再建された。本堂には豊成郷と中将姫の木像がまつられている。豊成の墓と伝える古墳がある。

徳融寺(とくゆうじ) 融通念仏宗 豊成山 
藤原豊成公の邸宅があった場所。
中将姫と父・豊成公の石塔と四方仏石が建つ。
観音堂の子安観音像は乳児を抱き上げた珍しい姿をしており、我が国最古の子安観音といわれる
また、本尊の阿弥陀如来立像は北条政子の念持仏といわれる。

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http://urano.org/kankou/naramati/mati4.html
http://www8.plala.or.jp/m-kawa/aruku400.html
http://homepage3.nifty.com/kimura1/Naran88temp/index.htm

古寺巡礼奈良 當麻寺 淡交社
奈良町風土記 山田 熊夫 豊住書店
奈良の昔話 増尾正子著 まほろば出版局
中将姫物語 川中光教編 當麻寺
女性と仏教 奈良国立博物館
聖なる女 斎宮女神中将姫 田中貴子著. 人文書院
中将姫佛教説話 大屋徳城著. 法文館
中将姫説話の調査研究報告書 元興寺文化財研究所
ならまち通信 ならまち振興財団
當麻曼荼羅縁起
中将姫物語 阿波谷俊宏 徳融寺長老著 徳融寺
中将姫を想像する 徳岡孝夫 徳融寺
続大和路をめぐる 山路麻芸著 春秋社
大和奈良かくれ古寺巡礼 嵯峨崎司朗著 実業之日本社
高坊高林寺 稲葉珠慶著 高林寺
奈良まほろばソムリエ公式テキスト 山と渓谷社

奈良の民話「中将姫物語」~光の中へ
http://taketokiri.sakura.ne.jp/move/tyuujouhime.htm

テーマ : 奈良の歴史
ジャンル : 地域情報

三輪資料

http://urano.org/kankou/kitayama/minaya05.html
http://joysite.jp/obanet/non_walk_yama00.html


三輪山
高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川、北は巻向川の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ha。
山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われる。
古事記によると、昔大和盆地に住んでいた活玉依毘売(いくたまよりびめ)が夜毎に通って来る男によって懐妊するが、その男の正体が判らず両親の提案によりある夜、男の着物の裾に麻糸を付けその糸を辿って行くと、糸は鍵穴を抜けて青垣をなす円錐形の威容のある山の社に達して、そこには大蛇が髑髏を巻いていた。このことから男が大物主大神である事が判り、また糸が三勾(さんこう、三巻)程残ったので、その土地を「三輪」と呼ばれるようになる。

若宮社(わかみやしゃ「大直禰子神社」 おおたたねこじんじゃ)
祭神は大物主神の子孫大直禰子命(大田田根子 おおたたねこ)。
奈良時代に大神寺(おおみわでら)、鎌倉時代に大御輪寺(だいごりんじ)と呼ばれた神宮寺で、現在聖林寺に安置されている国宝の本地仏「十一面観音」を祀っていたが、明治の神仏分離で神社に成る。
 
久延彦神社(くえひこじんじゃ)
祭神は久延毘古命。居ながらにして世の中の事をことごとくお知りになって居られる智恵の大神。
古事記には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている神様。
国作り神話には案山子(かかし)として登場する。
少名毘古那神がはじめて出現した時、誰も知らなかった少名毘古那神の名を知っていた神であり、知識の神として崇敬される。

狭井川(さいがわ)
古事記には、川の畔に大神神社の祭神、大物主神の子、伊須気余理比売命(いすけよりひめノみこと)の館が在り、神武天皇が彼女を訪ねてこの辺りへ来た時、佐韋(さい、山百合)が咲いていたので「佐韋川」と名付けたとある。

神武天皇聖蹟碑(じんむてんのうせいせきひ)
葦原の しけしき小屋に菅畳(すがたたみ) いやさや敷きて わが二人寝し (古事記 中つ巻)
(葦原の韋の繁った小屋に、菅の蓆を清らかに敷いて、二人で寝たことだ)
東征の後に橿原の地で即位した神武天皇が、大久米の進言によって、狭井川の辺で見初めた比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と一夜を明かした時の歌。

富士神社(ふじじんじゃ) 
富士登山の際には本殿前の砂を持って行き、霧など視界が悪い時にその砂を蒔けば、たちどころに視界が開けるといわれます
弁天社古墳(べんてんしゃこふん、古墳時代後期)
 社殿の裏側に、古墳の石室が露出し、楠木が石室を包み込む。

茅原大墓古墳(ちはらおおばかこふん)
帆立貝型前方後円墳で、墳丘部全長約66m、後円部径約56m、前方部幅約29m、箸中古墳群の中では、「箸墓古墳 」に次ぐ規模をもつ。築造年代は五世紀と考えられる。

桧原神社(ひばらじんじゃ) 
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
大神神社の摂社。大神神社と同様に三輪山を御神体としており、現在は山中の磐座を御神体とすることから、拝殿も本殿もなく独特の形をした三つ鳥居が立つのみ。
崇神天皇6年(紀元前92年)、宮中内に同床共殿(どうしょうきょうでん)で祀られていた天照大神を、笠縫邑(かさぬいむら)にうつして磯城神籬(しきひもろぎ)を立て、豊鍬入姫命(とよすきいりのみこと)に奉斎させたと『日本書紀』に記されている事から、天照大神が伊勢神宮に鎮座する前の宮があった笠縫邑の伝承地で、元伊勢とも呼ばれる。

玄賓庵(げんぴんあん)
平安時代に桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌って三輪山の麓に隠棲したという玄賓僧都の庵跡。
平安時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を安置する。
能『三輪』の舞台としても知られる。

能『三輪』あらすじ
 三輪山に庵を構える玄賓僧都のもとへ、毎日、閼伽の水を持ってくる女がいた。今日も庵を訪れた女は、罪を助けてほしいと玄賓に頼み、衣を一枚恵んでほしいと言う。玄賓は衣を与え、女の住処を尋ねると「我が庵は三輪の山もと。恋しくば訪らひ来ませ杉立てる門」という歌の通り、その杉立てる門を目じるしにおいで下さい、と言い捨てて姿を消す。(中入)
玄賓が訪ねると神木の杉に与えた衣が掛かっていて、その裾に「三つの輪は清く浄きぞ唐衣。くると思ふな取ると思はじ」という一首の和歌が記してある。やがて神霊が烏帽子・狩衣の男装姿で現れ、神も衆生を救うためしばらく迷い深い人間の心を持つことがあるので、その罪を助けてほしいと言う。そして三輪明神の妻訪いの神話を語り、更に天照大神の岩戸隠れの時に舞われたという神楽を奏するが、夜明けと共に消えてゆく。

八大龍王神社(はちだいりゅうおうじんじゃ)
八大龍王とは、仏教で法華経説法の座に列したと云う八種の龍王で、難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑迦羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)の各龍王を指す。
娑迦羅龍王が海や雨を司り、航海の守護神や雨乞いの本尊。

辰五郎大明神(たつごろうだいみょうじん)
元禄時代の大阪の豪商「淀屋(淀屋辰五郎)」を祀った神社

狭井神社(さいじんじゃ) 
約二千年前、第11代垂仁天皇の時に創祀せられた名社で、主祭神は大神荒魂神、配祀神が大物主神と、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめノみこと、神武天皇の妃、第2代綏靖天皇の母)、勢夜陀多良比売命(せやたたらひめノみこと、大物主神の妻、媛蹈鞴五十鈴姫命の母)、事代主神(大国主の子)です。

磐座神社(いわくらじんじゃ)
祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)
大物主大神と協力して国土を開拓し、あらゆる生産開発に尽力し医薬治病の方法を定められる。
俗に神農さんと称せられる。

活日神社(いくひじんじゃ)
崇神天皇に大物主大神の掌酒(さかびと)に任命された高橋活日(たかはしいくひ)は神酒を捧げる。
そして、「此の酒は わが神酒ならず 大和成す 大物主の醸し酒 幾久 幾久(この神酒は私が醸したのではなく、大和の国を造られた大物主神が醸造された酒です。幾代までも久しく栄えますように)」と歌った。以来、大神は酒の神として信仰され、「味酒(うまざけ)」は三輪の枕詞となる。

大神神社(おおみわじんじゃ) 
祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
大物主大神を祀り大和朝廷創始から存在する「日本最古の神社」の1つ。
三輪山そのものを神体とする神社で本殿をもたず、拝殿から三輪山(御神体)を仰ぎ拝む古神道の宗教習慣を残している。三輪山信仰は縄文・弥生時代にまで遡る事が、遺跡調査によって確認されている。
拝殿は1664年に、四代将軍徳川家綱により再建された。


『古事記』の上巻に、
大国主神が自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神が亡くなられ、 たった独りでどのようにしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光(てら)して依り来る神」があった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、 「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に「こは御諸(みもろ)の山の上に坐す神なり」と記れる。
つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、 三輪の神であり、これが大神神社ということである。続いて、同じ『古事記』中巻の 神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神」であることが記される。

また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神 が、協力者の少彦名神がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂(さきみたま)・奇魂 (くしみたま)」であると言い、「日本国(やまと)の三諸山に住みたい」と答える。 そして「この神が大三輪の神である」と記しています。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子が三輪君族の始祖であり、 三輪の神が大物主神であることが示される。

更に、平安中期の『延喜式』にも同種の伝説が記されている。
いずれも、大和の東方に独座していた三輪山に、大物主神を祀ったことが記載される。

また、酒と薬の神でも有り、造酒屋の軒に吊されている杉玉は三輪山の杉で作られる。

平等寺(びょうどうじ) 
大神神社の元神宮寺。581年聖徳太子が8歳の時、賊徒を平定する為、三輪明神に祈願し、目出度く賊徒平定の後に「十一面観音」を彫って寺を建立した「大三輪寺」が起源。鎌倉時代の初期、慶縁上人を迎えて「平等寺」と改称されてより大興隆を極めた。

磯城瑞垣宮跡(しきみずがきのみやあと)
第10代崇神天皇の「磯城瑞籬宮」跡
現在は志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座する。

金屋の石仏(かなやのせきぶつ)
平安時代後期から鎌倉時代の間に作られた石仏。 
右が釈迦如来像、左に弥勒菩薩像と伝わる。
平等寺に安置されていたが、明治初年の神仏分離により現在地に移される。

海石榴市観音(つばいちかんのん) 
向かって右が、長谷寺式観音の特徴を持つ十一面観音。左は聖観音である。いずれも元亀(1571~1572年)の銘を持つ。初瀬川の岸に流れ着いたとも言い伝える。

海石榴市は、万葉集にもその名があり、八十衢(やそのちまた)と表現される。

紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる子や誰れ  巻12 - 3101
(紫染めには椿の灰を入れるもの。その椿のある海柘榴市で出会った乙女、あなたは誰?(名前を教えて欲しい))

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰れと知りてか  巻12 - 3102
(名を教えてもいいけど、すれ違っただけのどこの誰かもわからない方に何と言えばいいかしら(お教えできませんことよ))

海石榴市の 八十の衢に 立ち平し 結びし紐を 解かまく惜しも  巻12 - 2951
( 海石榴市のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、結び合った紐を解いてしまうのは惜しい事です。)

海石榴市港
大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点で山の辺の道や初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあったので物産が集まり、日本最古の交易市場が成立し海柘榴市と呼ばれ賑わった。
清少納言も枕草子で海柘榴市の賑わいを紹介している。
ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣」の舞台でもあった。

仏教伝来の碑
欽明天皇の13年(552年)に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻物等を献上し、日本に仏教を最初に伝えた所と言われる。
607年には聖徳太子が派遣した小野妹子を大使とする遣隋使節団も海柘榴市の港から川船で大和川を下り、608年には小野妹子が隋の使者を伴って帰国しこの港に到着した。このとき飾り馬75頭を遣わして阿部比羅夫に迎えさせ、飛鳥の小墾田宮に入京したとの記録も残されている。海柘榴市周辺は大陸との交流の中心地で迎賓館も設けられ外国使節を歓迎した。


ここで本日のコースは終了となります。
みなさま、お疲れ様でございました(^o^)

参考文献
日本の古社 大神神社(淡交社)、奈良まほろばソムリエ公式テキスト(山と渓谷社)、角川日本地名大辞典 29 奈良県(角川書店)、神奈備大神三輪明神(三輪山文化研究会編 東方出版)

参考サイト
大神神社公式HP、平等寺HP、
奈良観光、奈良の寺社、神奈備にようこそ!、奈良歴史漫歩、Wikipedia山辺の道、大和路アーカイブ、記紀・万葉でたどる奈良

テーマ : 奈良
ジャンル : 地域情報

佐保川桜と周辺寺院

興福院

奈良時代(8世紀中頃)の創建のようです
寺伝では天平の頃、和気清麻呂が学問所として創建した弘文院が前身とも伝わり、
「諸寺縁起集」や「七大寺日記」などの史料には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされ、諸説存在するようです。
元は、近鉄尼ヶ辻駅近く(現在の伏見の崗「興福院別院」)に創建されましたが、
1665年(寛文5年)に現在地に移転し、尼寺として再興されています。

尼寺となったのは、筒井順慶の一族の自慶院栄誉心慶尼が初代で、2代目は豊臣秀長の妻の智雲院で、豊臣時代は手厚い保護を受けていました。
江戸時代に3代将軍家光来訪の際、3代秀誉光心尼が小堀遠州のとりなしで寺号を興福院と改め、遠州により本堂、書院、山門が造営されています。
書院には渡辺始興の水墨画の障壁画があり、霊屋には歴代将軍の位牌があり、渡辺始興の極彩色の襖絵も見事のようです。


吉村長慶(よしむらちょうけい)
文久3年(1863)12月21日(陽暦では元治元年.1864 1月29日)奈良薬師堂町の質商吉村家に長男として生まれる。
明治12年数え17 才の時、慶応義塾に入学、間もなく退学して陽明学を学び、大隈重信ほかの立憲改進党の志と交わり、党の創設に加わる。
明治14年帰郷。
明治19年、結婚し家業の質商を営む。
明治27年、日清戦争のバブル景気で長慶は北浜の相場で膨大な利益を得る。
明治29年、数え34歳のとき分家して西ノ吉村家を興す。同年日清戦後の大陸へ渡り、上海を起点に中国各地を単独で旅行。
同29年、高野山奥の院に吉村家の墓所を設置。宇宙菴を名乗り、様々な石碑を造る。吉村家の菩提寺である奈良市鳴川町の徳融寺に最初の長慶生前墓を建てる。この頃から狛犬や千度石といった無難な石造物を社寺に寄進する。
明治31年、奈良市政発足に伴い、三級市会議員に当選。以後再選を重ねる。
明治39年、「畿内遷都論」(首都を東京から山城大和に遷都)を著し桂太郎内閣に建議。
明治37年数え42歳、母の還暦を記念して石の「志奈子橋」を菩提川に建設。興福院墓所地に墳墓を築く。
明治38年、欧米各国の宗教事情を視察、欧米の平和団体などに「世界平和會」賛同を呼びかける。このころ平和を記念する「諌鼓鶏」石灯を各地に奉納。高野山奥の院に二つ目の墓所を設け、武内宿禰碑(長慶の遠祖)。母志奈子の生前碑を建てる。
大正2年、当選が危ぶまれていた二級市会議員に予想を覆しトップで当選。宗教活動が活発になり、石工・新谷信正を独り占めにして石の作品制作に拍車がかかる。
大正5年、再び株取引に成功し財産を築く。箕面竜安寺に自分に似せた「ヒゲの大黒」を寄進。
大正11年還暦、自身の寿像を連作。大阪平野大念仏寺に「長慶入棺の座像」、佐保山に長慶寺造営を計画。
大正12年、長慶寺完成。長慶は得度して僧籍に入り、道号を普門長慶と称す。佐保川に長慶橋と下長慶橋を建設。川の内堤に「三聖人合掌の浮き彫り」と「宇宙教典」を設置する。
昭和3年、長慶寺に居を移す。「昭和の信仰」出版し、既成仏教、新興宗教、迷信陋習を攻撃する。教義や宗憲を刻文した宗教的な石碑と、等身大の自像を多く造る。
昭和14年喜寿、奈良市旧一条通に「長慶庵」建て隠棲。戎大黒、夫婦大黒を数点つくり和を説く賛を記す。
昭和17年(1942)10月27日、長慶逝去、行年数え80歳(万78歳)。

参考資料
ホームページ「安達正興のハード@コラム」より

大仏鐡道記念公園
ここに関西鉄道路線の大仏線大仏駅がありました。駅の南端が、この大仏鐡道記念公園になります。
1898年(明治31年)4月19日開業し、1907年(明治40年)8月21日に閉鎖されています。
伊勢や名古屋から大仏に一番近い駅として、大仏参詣に訪れる利用客で大変賑わっていたようです。
大仏線は加茂 - 大仏 - 奈良間(約8km)を運行していましたが、1907年8月21日に黒髪山越えの難所を走る大仏線に対し、平坦な木津経由への経路が開通すると次第に利用客も減り、明治40年に廃止されました。
わずか9年あまりの路線でありましたが、大仏鉄道の線路はその後も道路として利用され、いくつかの橋脚やトンネルなどの土木構造物が路線沿いに名残としては点在しています。

関西鉄道
明治時代に存在した鉄道会社で、大阪府北部・三重県・奈良県・和歌山県を中心に路線を展開していましたが、鉄道国有法により1907年(明治40年)10月1日に国有化されました。
現在は、JR東海・JR西日本路線の関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線になっています。

参考資料
大仏鉄道研究会公式サイト
http://www.eonet.ne.jp/~daibutu/

佐保川
奈良市の法蓮町から西九条町まで、約5kmにわたって1050本を超えるソメイヨシノが植えられております。
佐保川の桜が名所になったのは、江戸時代に奈良の名奉行であった川路聖謨が、桜と楓の苗木数千株を東大寺・興福寺の両寺を中心に、東は春日山の麓から南は白毫寺、西は佐保川堤まで、植樹し奈良公園の基礎を築いたといわれます。奈良の人々は春は桜、秋は楓を愛しんできましたが、桜の寿命は短く(約80年)、当時の桜はほとんど消失し、現存する桜は堤防に4本だけになっています。その中でも、樹齢約150年をこえる桜の木「川路桜(かわじざくら)」は見事です。
戦後になって、奈良県議会の働きかけにより植樹して桜が復活し、近年は地元の有志の方達により保存会が結成され、桜まつりや夜桜のライトアップなどが行われています。

なお、佐保川の「さ」は誉める言葉、「ほ」は大変綺麗という意味を持っているようです。

川路聖謨(かわじ としあきら)
川路聖謨(1801~68)江戸時代末期(幕末)の旗本。
1846年から約5年ほど奈良町奉行として在任しました。この間、貧民救済策を実施し、東大寺・興福寺を中心に大規模な植樹を行い、今日の奈良公園の基礎を築くなどの善政を施しました。
大坂東町奉行、公事方勘定奉行、勘定奉行格外国奉行等を歴任し、ペリー来航に際しては開国を主張します。
長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉をまかされ、翌年、下田で日露和親条約を調印するなど外交に力を尽くし、日露通好条約をまとめ、北方四島が日本固有の領土であることを明示したこと等で知られています。その際ロシア側は川路さんの人柄に大変魅せられたようであります。
その後は、将軍継嗣問題による幕府の扱いに不満を持ち外国奉行を辞職されています。
晩年は、中風で半身不随に陥るなど、不遇の日々を過ごされ、
1868年、西郷と勝による「江戸城開城」の報を受け、幕臣としての信念から割腹し銃で喉を撃って壮絶な最期を遂げられます。
享年67歳。

川路さんは天保の改革で奈良奉行に左遷されて、江戸から15日かけて妻子や養父母とで奈良にやって来ましたが、江戸を離れたがらない実母を残してきたため、頻繁に奈良での様子を書き綴り、書簡を江戸に送っていて、それが往時の奈良の様子を今に残す貴重な資料になって残っています。
川路さんは、よほどこまめに記録をした人のようで、他にも日記などの文書がたくさん残っています。(「寧府日記」など)
当時の奈良の庶民のことや食べ物や風物、見聞きした文化、歴史のことなどもよく描かれ、最初は奈良の風習に戸惑っていた様子ですが徐々に慣れ、しだいに頻繁に奈良を歩き回るようになり、奈良の歴史文化に触れてゆくにつれて、その奥深さに心惹かれていったようです。

川路さんの名前がこれほど奈良の人々に知られ、記憶されているのは、奉行として善政をおこない、奈良の恩人と慕われているからであります。
例えば、罪人が牢より出た後、働き口もなく、結局、再犯してしまうことに気づき、自ら出資しまた地元の富裕層からも募金を呼びかけ、基金を創設してその利子で貧民救済にあたった結果、再犯が減ったといいます。しかも、自らの出金にあたっては名前は出さず、匿名にしたようです。
自分のアイデアで様々な庶民派の制度を、作っていった奉行さんでありました。

山田風太郎はその著「人間臨終図鑑」において、
「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうものの、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。」と記されています。

現在、奈良女子大学のある場所が、奈良奉行所跡であります。


称名寺(しょうみょうじ)
浄土宗西山派で山号は日輪山。
1265年(文永2年)に興福寺の学僧(専英、琳英という兄弟)が常行念仏の道場として創建したものであります。当初は興福寺の別院で、興北寺(こうほくじ)とも呼ばれていました。
室町時代には東西に400m、南北に300mの寺域を有していたが、2度の火災で諸堂全てを焼失。1802年に現在の本堂と、独盧庵のみが再興されました。
本尊の阿弥陀如来像と釈迦如来像を含め5体の重要文化財があります。(3体は奈良国立博物館で保管)
また、侘び茶の祖として知られる村田珠光が11歳のときに出家したとされます。

獨盧庵(どくろあん)
別名珠光庵。村田珠光の好みと伝えられる(現在では否定されている)。三畳敷であるが点前座の一畳を台目構えとし、また一畳半の鞘の間との敷居を外して四畳半の席にもすることのできる、大変珍しい席である。文化年間(1804年-1818年)の作。
5月15日(珠光忌)に近い日曜日に盛大な茶会が行なわれるそうです

千体地蔵尊
松永久秀が永禄元年(1558年)に多聞城を築城する際、その城壁に用いた地蔵石像で、その数は約1,900体に及びます。

村田珠光(むらたじゅこう)
応永29年(1422)検校村田杢市の子として現在の奈良市中御門町で生まれ、幼名を茂吉と称した。
十一才の時、出家して当称名寺の僧となり、十八才の時当寺の塔中法林庵に住したが、二十五才の頃一旦還俗して世俗の生活を送った。その後三十才の頃京都紫野の大徳寺に入り、参禅工風を重ねて茶禅一味の境地を開くに至る。
その一心に徹する姿を良しとして、その師一休禅師(1394-1481)から宗経山円悟禅師の墨跡を授けられた。珠光が喫茶に礼式を興し、その名を天下に響ろかせるや、時の第八代将軍足利義政(1436-1490・銀閣寺を建立)は珠光に就いて茶道を学び、六条堀川に庵を贈り珠光庵の扁額を授けた。
珠光は、ここにおいて四畳半の座規や台子の法を定め、京都銀閣寺東求堂に代表される書院茶の華美に対して、真の茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、佗び茶の基礎を確立した。
この珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎(1505-1555)、千利休(1521-1591)を経て今日に伝わり、現存する各流儀のいづれもが村田珠光を以ってその祖としている。
なお珠光は、文亀2年(1502)五月十五日、八十才で遷化し、大徳寺真珠庵に葬られるとともに、同年七月十八日法跡たる当称名寺にも分葬された。

称名寺ホームページより

村田珠光がわび茶の祖とされるのは、「心の文 」という重要な文章を残したからとされ、「心の文」は茶の湯が人間の成長をもたらす心の道であるということを示唆しています。

参考資料
ブログ「奈良の景色」写真・雑記 
http://naranokoto.seesaa.net/article/149442317.html

蓮長寺
開創年代は不明ですが、奈良時代末(750年頃)に創建された(三論宗)「喜見城院」が前身とされます。
日蓮聖人が寛元4年(1246)~宝治元年(1247)に滞在し、応仁2年(1468)、日蓮宗に改宗
桃山時代に火災で焼失しますが、承応元年(1652)に復興して蓮長寺と改めています。
本堂には本尊として法華経入宝塔を中心に左右に多宝如来、釈迦如来を安置のほか、四天王立像、誕生仏、日蓮像、大黒天像、七面大明神、八大龍王像などを安置されています。

蓮長寺竜騒動伝説

その昔、寺に近い溜池に竜が出没して、毎夜農作物に被害を与えていました。
困りはてた農民の訴えを聞いた住職が、ある夜その場所に出かけてみると、闇の中で竜が大暴れしていました。
もしや本堂の大竜では、と住職が急いで寺に帰り竜の絵の眼を槍で突いたところ、それ以来、竜は出現しなかったといいます。
この蓮長寺は、以前は喜見城院、喜見院と呼ばれていましたが、日蓮聖人(前の名は蓮長)が南都遊学の折、この寺を拠点とされ、以後聖人にちなんで蓮長寺と名を改めたといわれています。

西方寺(さいほうじ)
本尊は、木造阿弥陀如来坐像(平安時代の作・国重文)元は眉間寺の旧仏と云われています。
奈良時代に行基菩薩によって多聞山に創建されました。
1559年(永禄2年)に松永久秀が多聞城を築くために、現在地に移築されています。
1603年(慶長8年)に、東大寺の勧進職祐全上人によって再興されます。
翌年、正親町天皇から南都総墓所の勅旨を受け、現在も広大な墓地が広がります。
祐全上人坐像は、弘治2年(1556)の作で16世紀に奈良を中心に活躍した仏師集団「宿院仏師」の作で、数少ない肖像彫刻の例として貴重なものとされ、奈良市の指定文化財になっています。
境内には祐全上人のお手植えという樹齢400年の“厄除けイチョウ”や茶室などがあり、無名の頃の宮本武蔵も修行に来たと伝わっています

念仏寺「山の寺」
開化山に御陵守護のために建立されたことによります
 (浄土宗) 降魔山善光院「念仏寺」です。本尊 阿弥陀如来
元和8年(1622)に徳川家康の末弟(当時伏見城代)松平隠岐守定勝が、袋中上人を開山として建立
本堂は寛永7年(1630)の建立で、浄土寺院としては古い建築です

徳川家康公は1614年大阪冬の陣で、真田幸村軍に破れ
この「山の寺」に落ちのび桶屋の棺に隠れ、九死に一生を得たと伝わります
境内に徳川家康末弟「松平隠岐守定勝」の墓と 奈良町奉行「桑山左衛門」の墓があります。

東にある漢国神社には、家康が落ちのびて鎧を奉納したという「鎧蔵」があります 

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Author:奈良入門ガイド
歴史のもっとその奥へ!!

「歴史や寺社に興味のない人も、楽しくためなるご案内!」をコンセプトに、奈良入門ガイドや入門講座をやっています。
歴史文化を、どう日本人の糧と薬に出来るか日々模索中。歴史の心を全国に広め、世界の秩序向上に貢献出来れば幸いです。
「人々の安全保障」(全生物の、生活と生存を守ること)に貢献する事を、当面の目標としています。
奈良大学卒、奈良検定最上級、京都検定初級。

歴史精神文化というツールを用い、世の安寧を目指してゆければという願いを込め、京都の「平安」と奈良の「寧楽」を合わせて「安寧会(あんねいかい)」と名付けています。

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